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作曲家 髙田三郎(たかた さぶろう)の祈りと表現(1)

髙田 江里

このたび、イエズス会司祭でありサダナの実践者として献身的に私たち信徒の指導に当たられ、このホームページの責任者でもあられる植栗師から典礼聖歌作曲者としての髙田三郎の祈りと表現について書いてみてはどうかとのお誘いをいただき、娘の私の力でどの程度書くことができるか、半ば躊躇しながら神様からお力をいただいて書かせていただく決心をした。

主の祈り

作曲家髙田三郎は、果たしてどんな生い立ちで、どのような経歴の持ち主かという事実、そしてキリスト者となった経緯に言及する前に、ひとつの典礼聖歌〈主の祈り〉について、作曲者の書き遺した文章を引用して述べたいと思う。

あの頃(筆者注:1962~65年の第2バチカン公会議において、母国語による典礼が許可され、典礼聖歌もそれに準ずるという決定がなされ、カトリック作曲家として、日本語の典礼聖歌作曲の依頼を受けた頃)、私は、この、ミサ全体の設計を思い巡らしていた。 それは簡単なことではなかった。 簡単に決められる人もいるが、私は何日も何日もそのために使っていた。 そんなある日、ある外国人の司祭が私に「〈主の祈り〉をまず作曲してほしい」と語りかけて来た。 その日帰ってから私は、ミサ全体を考えている私が、この作曲から入っていくのはまことにふさわしいことだと気づいたのであった。 キリストの弟子たちが「わたしたちはどう祈ったらいいのですか」と訊いた時、キリストが教えられたため(注:マタイ6章、ルカ11章)この名がついている。 即ち、主キリストが教えてくださった「天の父」に向かっての祈りなのである。 (中略) この祈りと対話句の一部との楽譜は、「典礼聖歌」合本に入れられる前に6回印刷されている。最初の2回は謄写版刷りで日付もないが、3は1968年、4は69年、5は71年、6は74年、そして合本は80年に出ている。 この間、対話句、即ち、ミサの式次第も、出版のたびにことばが変わり、それに従って旋律も変えなければならず、正に生みの苦しみであった。

(『ひたすらないのち』カワイ出版 2001年 pp.126-127)

その後も〈主の祈り〉のことばは変わったが、こだわりをもって選び抜かれたメロディーの大筋を変えることなく歌い続けて行かれるのは、生みの苦しみを神様からの「贈り物」として、作曲家の職人芸に徹した髙田三郎ならではと思う。

そして、〈主の祈り〉の中でも一部旋律を変更した。
それは「み国の来たらんことを」という行である。
「神の支配がこの地上にも及びますように」(フランス語訳勘案)というキリスト教永遠の祈願で「主の祈り」の中でも中心をなしている一行である。
私が見通したミサ全体の設計の中に、日本の旋法(五音音階)だけではどうしても足りず、ギリシア旋法(グレゴリオ旋法、七音音階)から一音を取り入れ、司祭の歌唱部分に使用しようという考えを持っていた。
(その部分については、その時に述べるが)今、上に書いた一行の変更部分に、私は思い切ってその音を使用したのである。

(前掲書、pp.127-128)

2000年10月13日、5年来重い心臓病を患っていた父は、最後の発作を起こし入院した。1日1日、まるで1枚ずつ衣を脱いでいくかのようにこの世の事柄から遠ざかって行く父に私はどうしたらいいか、途方に暮れて「一緒にお祈りをしましょうか」と語りかけ、〈主の祈り〉を歌った。
すると父は、一言も言葉を発することはなかったが、子供のように手を合わせ、祈りの言葉とともに胸に手を当てたり、両手を開いたり、天に向かって伸ばしたりしながら、一緒に祈っていた。
美しく温かい、父と過ごした最期の時間であった。
なお、上に引用した『ひたすらないのち』は、1996年から『音楽の世界』に連載された髙田三郎の「続回想の記」を2001年に故人の遺志を継いで妻髙田留奈子が出版したものである。   2012年3月、広島のエリザベト音楽大学 ザビエルホールにおいて、松原千振指揮、エリザベト シンガーズの合唱(無伴奏)で、髙田三郎作曲の典礼聖歌の録音が行われた。
そして同じ年の12月15日、同大学セシリアホールにおいて、演奏会が行われ、筆者も東京から聴きに駆けつけた。
そのとき発売されたCDのタイトルは、【主の祈り】である。
エリザベト音楽大学と髙田三郎、とくに初代学長エルネスト・ゴーセンス師とは、1950年代に親交があったのだが、詳しくは次回に譲ることにしたい。

髙田三郎について

1913年12月18日 愛知県生まれ
(奇しくも今年、2013年は生誕100年にあたる)
1939年 東京音楽学校(現東京藝術大学)作曲科卒業
    信時潔、クラウス・プリングスハイムに師事
1953-79年 国立音楽大学教授、その後同大学名誉教授
日本現代音楽協会委員長(1963-68、79-84)歴任
1992年 ローマ法王より聖シルベストロ騎士団長勲章を受章
2000年 10月22日帰天

高田三郎の略歴は、上記の通りである。しかし、キリスト教徒としての履歴としては、甚だこころもとない。
随想集【くいなは飛ばずに】(音楽之友社、1988年)の中の「キリストと私」と題された文章を参考にしながらその姿にせまってみたい。

記憶の曙の薄明かり、幼い物心ついたか付かないころ私は、すでに毎日曜日の朝、兄とともに教会の日曜学校にいた。

(前掲書、p.73)

三郎は6人兄弟の3番目、三男として生を受けた。
そのうち長兄と双子の弟妹は、共に年が離れていたため、この「兄」とはすぐ上の兄、次郎であると思われる。
また、お世話になった長谷川牧師、定森牧師の名前も書かれていることから、おそらく日本基督教団の教会であったのではないかと思われる。
やがて関東大震災で東京を逃れ、名古屋に移り住んだ人たちの中に小学校の同級生の高島君がいて、その父君がルーテル教会の牧師だったため、すぐ下の妹静子も交えて教会に通い、兄妹3人で賛美歌を重唱していたようである。
三郎たちの父の職場であった裁判所の近くに移り住んだ後、愛知教会に通い、金子牧師の令息とも親交を得て三郎は旧制中学時代まで故郷名古屋で教会に通い、キリストの教えを聴き、オルガンや賛美歌に出会う日々を過ごしていた。
東京音楽学校へ通うため上京してから、牛込(新宿区の一地域)にあった信愛教会の上村牧師に出会い、聖書のギリシア語原典を引用しての熱烈な説教を聴く機会を得た。
音楽学校在学中の数年間は、信愛教会でオルガンを弾き続けていた。
後年、カトリックの洗礼を受けてからも、上村牧師とは親交があったようである。

髙田三郎はまた、仏教とも縁が深かった。
空襲で2回家を焼かれ、長野県に移り住んでいた三郎と妻の留奈子であったが、三郎が仕事で東京に来ていたある日、以前作曲を教えたことのある、禅寺の長男伊藤康圓氏に偶然会い、父君が住職を務めていた春雨庵の離れに住むこととなった。
東海寺の塔頭のひとつであった春雨庵は、寛永6年(西暦1629年)「紫衣事件」により山形・上山に流された沢庵のため、上山城主の土岐頼行が建てた庵を、江戸時代初期の延宝3年(西暦1675年)にこの地に移したと伝えられる。
現在春雨寺といい、康圓氏の令嬢伊藤志奈子氏に引き継がれている。
朝は、早稲田大学文学部教授であった住職、伊藤康安師の読経と木魚で目を覚ますという。
とても贅沢な2年半であったに違いない。

妻はそのころ、すでにカトリックになっていた。
妻の級友に熱心なカトリック信者で清く美しい一生を終えた人があり、その影響で妻のクラスメートにはカトリック信者が多かった。
私も妻の勧めでカトリックの勉強を始めたが、前記の疑問(注:「修行」の意義について)にカトリックはよく答えてくれたのである。
そして、それらに付随するすべての問題も、当初の私の素朴な考え方から、2年近くの勉強を経て洗礼を受け、信者としての生活を続ける間に薄紙をはがすように次第により明らかになっていくように思われた。
こうしてキリストはしばらくの空白の後、再び私に語りかけてこられたのである。
いや、仏僧の口をとおしても語り続けておられたのであろうか。

(前掲書、pp. 82-83)

髙田三郎は1950年代初頭、ちょうどフランス語を学び始めていた。
また留奈子はカナダから来日したばかりの、初台のレデンプトール会の教会に通っていた。
そこで、三郎はケベックのフランス系カナダ人ブレー神父に公教要理を学ぶことにしたのである。

レデンプトール会には、毎日1回は歌ミサという習慣があり、その時には、 初めから終わりまでグレゴリオ聖歌によるミサがたてられた。
私は受洗前から先年の第2ヴァティカン公会議により、ミサが日本語になっていった時までの十数年間毎週グレゴリオ聖歌のオルガン伴奏をひき続け、信仰の上からも音楽の上からも大きな収穫を得た。
祈りの音楽に付いて知り、音楽の曙に神に賛美と感謝を捧げる第1歩があったことも知ったのである。
そしてキリスト教国の子供たちが生まれて最初にきき、幼時と青春をその中に過ごし、それに包まれて結婚し、壮年期にも老年になってからもそれを歌い、それによって墓に入り、またその後もその人のために歌い続けられるこの歌のジャンルを知った。
そして、心から日本にもこのような歌がほしいと思った。

(前掲書、p. 84)

以上では、主に髙田三郎の信仰について自身が書き残した文章を引用しながら考えてきた。
最後に彼の祈りについて、前掲書、p. 83 から引用して第1回を終えることとしよう。

空襲で焼けた市ヶ谷仲之町に再び家を建て直して戻った後、長女が生まれた(注:江里のこと)。
そのころまだ信者になっていなかった私は、聖母病院で生まれた長女の洗礼式の時、聖堂でキリストに「貴方のいつくしみが必要な生命がまたひとつこの世に生まれ、今そこにいます」と祈った。