1. ホーム
  2. 深める・広める
  3. 日本キリスト者の祈りと表現
  4. 典礼や実践

作曲家 髙田三郎(たかた さぶろう)の祈りと表現(3)

髙田 江里

第1回でも述べた通り今年は、髙田三郎生誕100年の記念の年に当たる。
(本稿執筆時点は、西暦2013年)
父髙田三郎が人生の70年近くを過ごした東京だけでも、多くのゆかりのある方々が記念コンサートや歌唱ミサを催してくださっている。
きっと私の知らないところでも、典礼聖歌を歌って父を思い出してくださっている方がいらっしゃるに違いない。
そういうすべての方々に、この場を借りて感謝の気持ちを伝えたい。
しかしその前にまず、典礼聖歌の本来の目的、ミサで歌われる曲のうちの「ミサ賛歌」について書きたいと思う。

人類の音楽の歴史の中に、絶えることなく続いて来た大きな流れがある。
グ レゴリオ聖歌から永い永い中世、そして近代、そして現代音楽さえもミサ曲を初めとするキリスト教音楽を数えることも不可能なほど作曲し続けて来たことである。

ミサ曲というものについて

我々が明治の初めから取り入れて来た欧米音楽(南米、オーストラリア、アジアをも含む)が、これらの音楽から出発し、展開し、今も大筋ではそれに沿ってもいることには誰も疑義をさしはさまないであろう。
私は今、そのジャンルの音楽について書こうとしているが、それらの音楽の本来の役割についてもある程度触れたいと思っている。
「典礼聖歌」は、それまでになかった範疇の歌で、典礼、特にその中心をなす「ミサ」の中で歌われるために作られたものである。

「最後の晩餐」から

キリストの受難、十字架につけられたのは金曜日であるが、その前日、キリストと弟子たちは集まって、ユダヤ人の過越(すぎこし)の祭り食事の席についていた。
それが著名な画家たちの題材にもなっている「最後の晩餐」である。
その席上、キリストはパンを裂き、弟子たちのひとりひとりに与え「これは私の身体(からだ)である」といわれた。
また葡萄(ぶどう)酒の杯をとり、やはり弟子たちに与えて「これはわたしの血の杯である」といわれた。
弟子たちはみなそれを食べ、飲んだが、キリストは「これをわたしの記念として行いなさい」と付け加えられたのである。
この「記念」を中心として「ミサ」という神(かみ)奉仕が、二千年間、地上の至るところで続けられて来ている。
ミサは、24時間絶え間なく地球の回転に沿って続けられている。

(『ひたすらないのち』河合楽器製作所・出版事業部、2001年 pp.120-122)

歌唱ミサ

歌唱ミサは、第1回に取り上げた【主の祈り】をも含む、ミサの開祭から閉祭までの一連の司祭と会衆のやり取りや朗読、個々の祈りを歌唱によって進めて行く式次第である。

ミサの開祭は、司式司祭と会衆(祭司の民)との挨拶から始められる。
(中略)
「主は皆さんとともに」「また司祭とともに」という対話句はミサ中にしばしば現われる。
これは、そのように定められた言葉を随時繰り返しているのではなく、ミサという集会に、主であるキリストご自身が、司式司祭と会衆とともにその真中に立っておられるということを確認してその次の朗読、または祈りを始めるという確かめを備えた言葉なのである。

(前掲書、pp.130,131)

ミサ賛歌

ミサ賛歌が文語体であることは、それなりによいと思っているのです。
それはまず「すべて口語体」という原則を定めて、それで自分たちを縛って身動きできないようにすることに私はむしろ反対です。
私の友人のまた、日本の多くの詩人たちは、文語と口語を自由に、ひとつの詩の中に混用してよい詩を書いています。
規則、規格は悪いものではないが、それを金科玉条にするとき、悪い結果を生むことがあると思っています。
ミサ賛歌のテクストは、ミサ通常式文と呼ばれているように、どんな祝日でも、主日でも、週日でも全部同じです。
これなら文語も慣れた言葉、親しい言葉になります。
(中略)
面白いことがあります。
ラテン語のはずの昔のミサでも、「キリエ・エレイソン」はギリシア語です。

(『典礼聖歌を作曲して』、オリエンス宗教研究所、1992年 p.35)

私は(所属教会であるレデンプトール初台教会において)10数年間グレゴリオ聖歌の伴奏をひき続けて来ました。
いろいろな伴奏の楽譜によってひきましたが、アンリー・ポティロン教授の伴奏譜に出会ったとき、これこそほんとうのこの聖歌の伴奏型であると思いました。
それをひくと、修道司祭の方がたも神学生のみなさんも歌いやすいと喜ばれました。
そして私自身もこの伴奏譜によって多くを学んだのです。
グレゴリオ聖歌では、旋律の繰り返しは比較的多いのですが、ポティロン教授の伴奏では、同じ旋律に微妙に伴奏を変えて行っています。
私はそれをひきながら、ほとんどの人はそれに気付いていないとは言え、繰り返しのたびに色合いを変えて行く美しいハーモニーを伴奏者が誰にも気づかれないように贈る、祈り歌う人々へのあたたかい心づくしのように感じながらひいていました。
私が作る立場になったとき、それは当然、私のしなければならないことになりました。そして、それと気付かれないとはいえ、いい空気のようなものの中で歌われていることになるのを確信してきました。

(前掲書、pp.42,43)

筆者もまた、さほど頻繁にという訳ではないが、教会の内外、国の内外で典礼聖歌の伴奏に携わって来た。
父が私にとって身近な人であっただけに、どのようなきっかけや意図で伴奏を書いたかについて、このたび初めて意識して父が書き残した文を読んだのであるが、私が〈あわれみの賛歌〉の伴奏を弾きながら感じていたそっくりそのままを、父がポティロン教授の伴奏譜から感じていたことを知り、国と世代を超えた贈り物をもらったように思い感慨深い。

典礼聖歌の演奏

1)カトリック教会の典礼音楽として

毎年大晦日から元旦にかけて、NHKテレビとラジオで「ゆく年くる年」という番組が放送される。
ある年のこと、恒例の「紅白歌合戦」を見るともなく見ていた私は、ふと聞き覚えのある歌声に画面に引きつけられた。
それは紛れもなく、父の典礼聖歌であった。
由緒ある仏教総本山の除夜の鐘と、修行僧の方々の読経の声に続く、長崎のカトリック教会からの中継であった。
典礼聖歌が受け入れられ、教会に根付くまでにどれほどの年月と紆余曲折を経る必要があったか、母から聞かされていた私は、有り難さに目頭の熱くなるのを覚えた。
2000年に父が亡くなった後も、多くの神父様方、教会音楽の専門家の方々、そして合唱指揮者の方々が、典礼聖歌がますます祈りの心をもって、広く、正しく歌われることをめざして講習会やコンサートを開いてくださっている。
その方々のお一人お一人のお名前を挙げて、お礼の言葉を捧げたいところであるが、今やひとつの「人格」を持つようになった典礼聖歌が、どこで誰によって育てられているか到底私の把握し得るところではなくなって来ている。
生前の父と深い関わりのあった、合唱指揮者の須賀敬一氏、鈴木茂明氏、第1回に登場した松原千振氏、オルガン伴奏者として長年にわたり活動を支えてくださっている木島美紗子氏のお名前を挙げて、特別な感謝を捧げたいと思う。

2)コンサートにおける典礼聖歌

髙田三郎はかねてより典礼聖歌は、単に聖堂の中でミサやその他の儀式でのみ歌われるのでなく、コンサートなどで歌うことによって一般の人に聴いてもらう機会を作り、またキリスト者でない人たちと一緒に歌うことによって「み国が来ますように」「神の支配がこの地上にも及びますように」という「主の祈り」の願望が実現するようつとめるべきであると考えていた。
豊中混声合唱団(須賀敬一指揮)、コーロ・ソフィア(鈴木茂明指揮)、東海メールクワイアー(都築義高団長)を中心とする男声合唱団をはじめとして典礼聖歌に熱心に取り組み、海外の教会や一般会場で演奏した団体は数多い。
以下に、髙田三郎自身の言葉で書かれた、エルサレムでの体験を載せて3回にわたる私の拙い文章のしめくくりとしたい。

キリスト教には「聖地巡礼」ということばがある。
その巡礼地のひとつにイスラエルがあるが、この国は、イスラエルの民自身の三千年以上も前からのユダヤ教の聖地があり、二千年のキリスト教の聖地であり、千数百年のイスラム教の聖地でもあり、また、アジア、ヨーロッパ、アフリカ3大陸の接点に当たり、その3つの大陸とも密接に関わって来た地方なのである。
(中略)
私たちはこの地への2回目の巡礼(1992年8月)の時、ここにある色々な記念の聖堂や場所で、それぞれゆかりの典礼聖歌を歌ってその真の精神を心に刻む旅にしようと決めたのであった。
メンバーはいくつかの教会の聖歌隊に属する人たち、特にその指導的な立場にある人を主とした。
(中略)
ある日、エルサレムの西の壁に沿って幾重にも重なり、つらなっている地下の建造物を詳しく調査するために掘られている地下通路を、この事業のすべての責任者、ヘブライ大学のダン・バハット教授のご案内で「嘆きの壁」付近から地下壕へ入ったのであった。 (中略)
途中、ちょっとした広さを持ったホールにベンチが並べてある場所で休んだ時、私たちは聖歌を歌うことにした。
フィリピ2・8+9による聖週間の歌である。
「キリストは人間の姿であらわれ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、自分を低くして従う者となった。神はキリストを高く上げて、すべてにまさる名をお与えになった。」 歌い終わると、ダン・バハット教授は立ち上がって静かに私たちに話された。
「ユダヤの諺に〈よいものは東方から来る〉ということばがある。今歌われたような深い祈りの歌は、まず日本で作られ、そうしてのち我々の方へも伝わってくるものと思う」と、いうことであった。
きいて我々はしばらく黙ったままであった。厖大な旧約聖書を記述した、人類指導の民、その国の大事業の所長、ヘブライ大学教授からのことばであるだけに、まことに重みのある、しかし静かなことばであったからである。