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自然のいのちに生かされる【高森草庵の営み-1】

北木 延子

東洋の大地に深く根差した祈りの生活を基いとして存する高森草庵を訪ねると、人は心身がどこか平穏清浄なところに引き寄せられるような安心感を覚える。
それと同時に「自分は誰?」と問われるような厳しさにも招かれる。
澄み渡る空に聳え立つ甲斐駒を正面に、そして八ヶ岳が背後を囲み、山麓を包み込むように、なだらかな土地が広がる。
清らかな大気が、そこに生きるすべてを優しく覆うようだ。
この具体の輝く光と豊かな土の香りの中で、私たちの祖先も私たちも育まれて来たのだという実感と、「自分は誰?」という問いかけの意味を吟味させられる。
それは、腑に落ちたかたちでイエス・キリストに従いたいと希求しながらも、何か、どこかで、心身が応えきれていない。キリスト者として、キリストと共に生きるという確かな拠り所の出会いが無かったのだ。

しかし、ここ高森の場にそそがれる風と単純な眼差しにふれ、解き放たれて急に「生かされているのだ!」という思いが、限りない懐かしさと共にやってきて次第に安らぎが沁み渡る。

風土を通して生かすいのちに生かされていると、自覚することが出来たのだ。 近代、地球のあらゆる領域でこの風土の香りが疎外される環境に向かって、急速な変化の流れと仕組みが広がり、入り込んできて心身はそのひずみを溜め込み、息苦しくなっているのだ。
滾々と湧き出ずる泉にいのちを養われ、火をおこし、土を耕し、人々に寄り添って立つ木々に囲まれての日々の営みがあってこそ心身をすこやかにする境地が生まれるのだ。
「本当のいのちの根」との対話と「ひびき合い」から、お互いをかけがえのないものとしてお大切にするということを学び、いのちの根源を体感するのだ。
すべての人々の心身は、具体的風土の中にあり、風土により、地形、気候、文化と、いろいろな差異はあっても、東西南北、地球上のあらゆる人々が辿る人生において、「生かすいのちに生かされている」を、どう捉えることが出来るか――
イエス・キリストは、普遍的なメッセージを、神から遣わされて語っておられる。 高森の小さな御聖堂でのミサは、茶室のにじり口のような雰囲気の入り口より入るのだけれど、もう、その時は、ただ、ありがたさがこみ上げて、黙して座したいと、心身が応える。
ミサの始まる前に、永い沈黙の時が流れる。座して呼吸をととのえながら、深みへと沈む。
小さな板の間に、いにしえの一枚の板が祭壇として置かれ、手織りの布とむしろのような茣蓙が敷かれている。行なわれるミサでの、聖変化のときに、風炉で焼かれる砕かれた薪と小枝が炎となり燃え上がる。
イエス・キリストの捧げられた御体に、私たちも共にあって、私たちの捧げ物を捧げ、燃やした火に自分も燃やされ、キリストの御体をいただいて生かされる。
パンは、小麦粉を水で溶き、焼いたもの、手でちぎられて、それぞれに分けられ、御血と共に、皆に廻して頂く。
師は言われる。
「私とあなたが、一つの運命で結ばれる。この神秘を生きなさい」と。
そして、
「いと小さきものにしたことは、私にしたこと。しなかったことは、私にしなかったこと。」一人一人の人間の中に限りない神の摂理の御手を拝む。そこにまごころをもって応える。これは生贄の火の象徴だ。
また、
「祈りは、い(いき)に乗る(載る)、あるいは、(宣る)の意。具体的祈りにも、それを具現するため、一息で言えるものがよいのです。霊的なものとは、つくるものではなく、自ずから生まれるもの、祈りも、そのようなものと思います」と。
ミサの終わりに、高森の日々の生活と働きに誘われて生まれた「お水のうた」が歌われる。

【高森のまどいのことほぎを詠う】

お水をいただきに参ろうよ
泉の水は天のお水よ
天のお水をいただきに参ろうよ
お水くださる 天のお命よ

ジョアンナさまには四○○年を
誰が泣くのかお水こぼれる
――隠れキリシタンの殉教の現実と一つに流れている流れが甲斐小泉の流れなのだ――
同じお水が稲子ば育てる
稲子育てよ おらが仲間よ

田植えするときゃおいらの手足
天のおやさまの手足となる

三千尺の原は寒いぞ
寒い風吹きゃ稲子ば寒い

稲子寒けりゃお日様が出て
お水ぬくめる稲子ば育つ

花も小鳥も小鳥も花も
天地一堂に夏は宴よ

宴の色も宴の声も
田の面の水に波紋をえがくよ

盆がもどるよ老いも若きも
里にもどるよ稲が出そろうよ

宴があればみのりの時の
湖もあがるよみんなだまるよ

みんなだまればもっとだまれば
黄金の波の見渡す限り

黄金の波の見渡す限り
原にゆらげば山は燃えるよ

山が燃えれば黄金を刈るぞよ
紫紺の空に黄金をかけるぞ

黄金かければ紫紺の空に
黄金こぼれる黄金の涙

人はかわれど もみ焼く煙
同じ思いをこめてのぼるよ
人がかわれば同じ田畑の米
食べる人ますキリスト様よ

キリスト様の体は育てよ
同じ田の米食うて育てよ

キリスト様の体のお命
あふれ流れる水のひびきよ

思いがけなくお命にうたれりゃ
思いがけなく流れに行けよ

人に隠れて流れて行けよ
同じお水の命のひびきよ

流れ行けども流れ得ぬ人
とどまりながら流れ行く人

同じお水の流れのお姿
ひとつひとつのひびきがこもるよ

違うひびきが一つにこもるよ
天のおやさまの心にこもるよ