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沈黙(真命山のメッセージ-3)

マリア・デ・ジョルジ

真命山は諸宗教対話センターとして特に仏教世界と交際しています。
(※真命山については、こちらを参照)
仏教は、むかし「仏道」と称され、日本には6世紀に浸透し始め、急速にこの国の宗教的支柱になりました。
中国から到来し、大乗仏教のかたちで広まり、日本ではかなり多様性を帯びる諸宗派を形成しながら発達しました。
釈迦の独創的霊性体験を認めながら、なおその教えを多角的に理解し、その特性を宗派ごとに強調してきました。
それらの 宗派の中で禅宗は、臨済禅であれ曹洞禅であれ、日本文化に相当おおきな影響を及ぼしてきました。

禅宗は特に沈黙を大切にし、言語表現の不完全性を、つまり禅を語る言語や思想表現の限界を超克するという意味で、沈黙が思考判断の中止として重要であるとされてきました。
禅の世界においては、思考の超克と知解力の「沈黙」が、かの真の智(悟り、正覚)であり、それによって現象世界を超越して実存との深い一致である神秘的‐直感的実態把握にいたるとされるのです。
禅修業の基本は、坐禅による瞑想です。
つまり、沈黙の中での坐禅です。
姿勢を正して坐り、右手の上に左手をおいて両手の親指の先を軽く触れるほどに合わせ、視線を1メートルほど先に落として半眼にたもち、曹洞禅では壁に向かって坐り、音もなく深い呼吸を繰り返します。
この姿勢を長く保つことにより、精神を集中し、妄想と自我を離れて無我・無私となり、真の自分、実在の深みの心境に達します。それが、禅の師匠が言う「大死」です。
禅を実践するキリスト者は、この経験から、聖パウロがガラテヤ人への手紙(2.20)で述べているように「生きているのは、もはや私ではなく、キリストが私の中に生きている」のです。
禅の老師たちが、坐禅の経験の真実の証しとして聖パウロのこのことばを高く評価するのは当然なのです。
しかし、問題がないわけではありません。
事実、キリスト教神学者と仏教学者の間にキリスト教禅の可能性について意見の相違があります。
日本におけるこの道のパイオニアはイエズス会宣教師ウゴ・ラサール愛宮神父(1898-1990)です。
同師は、1968年、東京近郊に神瞑窟を開創してキリスト教禅センターとしました。
ラサール神父は、禅体験として自分の「大死」を追体験し、つまり自己からの根源的解脱を体験し、キリスト者が禅を介して、愛ゆえに十字架の死にいたるまで自らを無とした神人キリストの道(フィリッピ2.6-11)との出会いの豊かな実りに到達できると考えたのでした。
そのほか、日本の霊性大家の中には、独自に同じ道を発見した人たちがいます。
その中で目立つのは、ドミニコ会士押田成人師(1922-2003)でしょう。
神秘家、霊性の大家として押田師は、禅のインスピレーションによる日本仏教霊性と自らの托鉢修道会の特性である福音根本主義霊性の要請との実りある統合をめざして活動しました。この面で日本教会の最近40年間の歴史に足跡を残したといえるでしょう。 日本の伝統的霊性とキリスト教的霊性の相互補完のために働いたもう一人の大家は、カルメル会士アウグスチノ奥村一郎師(1923- )でしょう。
高い教養と深い霊性の大家です。
奥村師は、日本的霊性の構成要素と命題を思想体系としてまとめようとされました。
フランコ・ソットコルノラ師は、真命山創立に当たり、上の二人に指導協力を求め、インスピレーションを受けています。
真命山では、本堂で沈黙のうちに曹洞禅の形式にしたがい壁に向かって坐禅します。
これは、真命山における祈りの生活、時には真命山に新しい霊性的歩みを求める仏教の方々とともに行う文化内受肉の特長を表しています。
沈黙の形は、キリスト教的修道院生活の中でも非常に大切であり、特に、真命山の生活では、坐禅のときだけではなく、日常生活全体を通じて大切にされ、さらに大沈黙の時間が定められています。
夜、寝る前の祈りの後は、翌朝の祈り・朝食・作務の終わりまでが大沈黙です。
作務は、禅宗の伝承にしたがい、自然と調和し、自然との一体感を味わいながら過ごす真命山のもう一つの重要な慣行です。
真命山では、毎日、朝食後の一時間ほどをこの作務に当てます。
できれば、客人もこれに加わります。
落ち葉を拾い、道を掃き、垣根を剪定し、草を抜き、石庭を整えるなどの作業を沈黙の中で、汗をかきながら行います。
作務のすべては、仕事の成果を求めるのではなく、むしろ祈りの心を大切にしながらその瞬間を生きることの学びです。
作務は、「祈りかつ働け」という聖ベネディクトの霊性を継承することです。
その時間は、まさに、正統的「庭園の霊性」を学ぶ特権的機会でもあります。
人の手にまかされた自然の一部である庭園は、心と全世界の象徴です。お造りになったすべてを「良し」(創世記1)とされた神と共に、人はだれでも自然を保護し、自然を養い、自然が創造主である神によりいっそうふさわしく、美しく、良くなるために神と共に働くように神から招かれています。
すべてのものについて「神は、お造りになったすべてのものを御覧になった。
見よ、それは極めて良かった」(創世記1.31)と書かれているとおりです。