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作曲家 髙田三郎(たかた さぶろう)の祈りと表現(2))

髙田 江里

典礼聖歌作曲への最初の一歩

ドイツ語では、職業のことをBerufといいます。
語幹のrufenは「呼ぶ」という意味で、Berufは「呼ばれる」ということです。
人はこの「呼び声」をきいて自分の職業を決めると考えられているからでしょうか。
私も私の青春のある日、その「声」を確かにきいて「作曲」を一生の仕事にと決めました。
有り難いことに、父もすぐ賛成してくれました。
そして今も、その「声」は私を励まし続けてくれています。
私がカトリックの洗礼を受けたのは、昭和28年の復活祭でした。
その前の要理の勉強は毎週1回で、一日も休まずに行きましたが、受洗は2年近くかかってのちのことでした。

その勉強のころのある日、「福音書は神みずからが書かれたのであって、4人の福音史家はそのペンであった」という話をききました。
その日の帰り道、わたしはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの一人ひとりをうらやましく思いました。
そして、もしできるなら(大それた望みだけど)自分も神のペンになりたいと思いました。
自分も作家の一人なのだから、と目をつぶりました。
その日の教会からの帰り道の間中、どこを歩いてどの電車にのったかもわからないほど考え続けました。
20数年前、すでに故人になられたある神父の強い考えによって、私は新しい典礼聖歌の運動に入ることになり、そしてたくさんの要望と祈りの手紙をいただくようになりました。
そしてこの人たちの祈りが、日本人全体の祈りとなるよう働きたいと思うようになりました。

(『ことばとしるし』1986年3月号)

この「ある神父」とは、種々の記録から広島のエリザベト音楽大学の初代学長イエズス会士エルネスト・ゴーセンス師(1908年7月19日、ベルギー・リュージュに生まれ、1973年3月8日帰天)であられたと確信する。

広島のエリザベト音楽大学の学長であられたゴーセンス神父とは、聖歌改訂委員会の書記長であられたころから委員の一人であった私は9年間そこでご一緒させていただいたのでした。

(『典礼聖歌を作曲して』オリエンス宗教研究所、1992年 p.12)

ミサ《やまとのささげうた》(典礼聖歌451-455)

この(注:聖歌改訂委員会の)長い仕事もいくらかはかどったころ、改訂されて出版予定の聖歌集には、チマッティ神父作曲のものなど2曲とともに新たに日本人の作曲による作品もと、いうことになりました。
そして委員長古屋司教から私に担当するようにとのご希望があり、私はそれをお引き受けすることにしたのでした。
その次の委員会で私は、この作曲の様式について「純様式の旋律」によることを提案しました。
これに対し、ゴーセンス神父は猛反対され、「日本的な旋律」を主張されたのでした。

(前掲書、p. 318)

明治維新の大改革以降、日本の音楽教育は、本来は日本の伝統的な音楽と西洋から入ってきた音楽とを折衷した新たな日本音楽を作る方向で決定されていたにも関わらず、結果としては西洋音楽一辺倒という方向に進んで行った。
筆者が幼少から学んだ音楽も西洋音楽であり、父髙田三郎は筆者に「日本を体に感じさせておくため、かねがね奈良のお水取りにも、歌舞伎にも、あるいは文楽などにもつれて行くように」(《ピアノのための五つの民俗旋律》解説より)しなければならなかったほどであった。
日本人作曲家によるミサ曲が、日本的な旋律と自由リズムで書かれたならば、教会で人々に歌い継がれていくことが叶うかどうかが、懸念されたものと思われる。

このミサ賛歌4曲と信仰宣言からなる「やまとのささげうた」は、芸術作品として書かれたのではなく、日本のカトリック教会の典礼音楽であるが、私が辿って来た道でのある鮮明な特徴を持った制作物としてここにそれについての概要を書いておきたいと思うのである。
1955年頃からであると思うのであるが、私は聖歌改訂委員会に専門委員として参加していた。
当時使用されていた『公教聖歌集』を改訂するのが目的であったが、この作業も終わりに近づいた63年ごろ、新しく改訂されて出版される『カトリック聖歌集』には、日本人の作曲によるミサ賛歌の一連ひと組を入れることになり、私にその役が廻わって来たのである。
私は、これをそのころ丁度研究していた浄土宗のお経の旋律によって書くこととした。
私の生まれた家は浄土宗であり、それらの旋律の中には、初めて聞くのでないものも少なからずあって、私にとってそれはまことに興味深い仕事であった。

(『来し方 回想の記』音楽之友社 1996年 p. 167)

また、グレゴリオ聖歌からも大きな影響を受けている。
その単純、優雅、そしてなだらかさを学ぶことによって、祈りの音楽であるよう念願したのであるが、この内的な問題のほかに、その自由リズムがわれわれの母国語の音楽的処理にいかに見事に適合するかは、私がかねがね自分の作品に応用ずみであって「あわれみの賛歌」と「信仰宣言」はその方法によって書かれている。
他の曲も表面的には、固定された拍子によっているとはいえ、やはりグレゴリオ聖歌の形式のもとにある音楽といえるのである。
伴奏もグレゴリオ聖歌的な、そしてそれに新しい旋法和声による処理と日本的な合成音とを私流に混ぜ合わせて書いている。

(前掲書 pp. 168, 169)

このミサ賛歌と信仰宣言はもちろん日本語であるが、作曲にとりかかる前にまず私は、「キリエ・エレイソン」の精神的願望について徹底的に知ることから始めた。
これはギリシア語であるが、以下4曲のラテン語の真意も仔細に調べていったのである。
そしてこれらの内容に一番ふさわしい旋律がグレゴリオ聖歌であることをまず確認し、パレストリーナはじめ、どんなに多くの作曲家がその作曲に力を尽くしてきたかも振り返ってみた。

(前掲書 pp. 169, 170)

雅楽の旋法による《聖母讃歌》

髙田三郎の作曲した最初の宗教音楽は、雅楽の旋法による《聖母讃歌》”Cantus Mariales Iaponici”である。

1957年のヨーロッパ旅行では、チューリッヒでの国際現代音楽協会主催の世界音楽祭、パリでの国際聖音楽会議、ハンブルクでの国際音楽教育会議などに出席したが、その翌年、ローマのサンタ・チェチリア協会から私に同協会出版予定の “Lourdiana”に載せるため の「聖母讃歌」の作曲依頼があった。
丁度その年の春からのことであるが、私の勤務先である国立音楽大学へ「雅楽」の講義のために来ておられた芝祐泰先生の教室に出席させていただく機会に恵まれた。
前記の、委嘱を受けた《聖母讃歌》を、私はいささかの迷いもなく雅楽の旋法によって書くことに決めたのであった。

(『来し方?回想の記』音楽之友社 1996年 pp162-164)

ラテン語の歌詞により、1.“Assumpta est Maria”「マリアは天に上げられた」2. “Maria Mater”「恵みの母、マリア」3. “Salve Mater misericordiae”「あわれみの母」4. “Tota pulchraes”「マリアよ、あなたは美しい」の4曲である。
ローマにあるサンタ・チェチリア協会の委嘱により、1958年から59年にかけて作曲された。
日本初演は、1959年10月、広島のエリザベト音楽大学における第1回宗教音楽会議に際し、同大学合唱団により行われた。

(『典礼聖歌を作曲して』オリエンス宗教研究所 1992 p. 293)

前にも述べたように、ゴーセンス師自身が日本語による典礼聖歌は日本の旋律によって書かれるべきであると強く主張されたのであるから、師のお膝元であるエリザベト音楽大学で初演されたこの曲をきっとどこかで聴いておられたに違いないと、髙田三郎も前掲書において述懐している。

「やまとのささげうた」と何曲かの初期の典礼聖歌は、筆者がまだ中学生か高校生の頃、当時市ヶ谷仲之町にあった家で作曲された。
まだ戦後20年そこそこの頃であったから、現代と違って防音装置の部屋などはなく、毎晩小さな音でピアノを弾きながら作曲している父の姿と気配がそこにあった。
特に〈谷川の水を求めて〉(典礼聖歌144)は、私がもっとも気に入っている父の曲のひとつである。
この曲は詩編唱和であり、会衆が歌う答唱に続き、独唱者により詩編が歌われ、何度か繰り返された後、最後は独唱者も含め、全員で答唱を歌って終わる。
西洋の調性、ヘ長調で書かれており、答唱の部分ははっきりした拍子とリズムを持つ。
詩編の部分は、言葉のリズムを表現できるよう、たくさんのシラブルを歌うための全音符と次の音符に移るシラブルが太字で示されるという方法がとられている。
詩編の言葉を、先ず黙読して味わい、次に声に出して読んでみると、何度か繰り返しているうちに、自分の中にかすかに、しかし確かに、ある世界が感じられるように思う。
その世界を言葉にのせて素直に口にしたとき、自ずとふさわしいテンポと声量で神を賛美する唄がほとばしるのではないだろうか。
詩編唱和にはその他に、〈神のはからいは〉(52, 53)、〈神よ あなたのことばは〉(75)など、そのときどきの私の心に寄り添うように、温かく癒してくれるものがある。
言葉が音楽とともにあるということは、なんという恵みであろうか。

次回は、カトリック典礼の中心であるミサで歌われる《ミサ賛歌》を取り上げ、さらに教会の中だけに留まらずさまざまな人たちが典礼聖歌をコンサートの場でも歌い、感動を分かち合っている様子にも触れていきたい。