1. ホーム
  2. 深める・広める
  3. 日本キリスト者の祈りと表現
  4. ことば

「行い」「実践」を強め深める「行(ぎょう)」

キリスト教では、良い信仰心や良い考えを「行いに表すべきこと」「実践で示すべきこと」は、かなり大切にされています。
この良さを日本の流儀でいっそう強め深めたいものですが、その指標を表わす言葉として大変優れた伝統的なことばがあります。
それは、「行(ぎょう)」です。
現代の日本のクリスト者でも、次のようなおりに、「行(ぎょう)」というものを達成できます。
聖体をしばしば訪問することを「実践」できるようになっている人の場合、それを一般的に「善い行い」「価値ある実践」というように捉えて済ますばかりでなく、そこに「行」の面を付加することができます。
時間を10分より短くならないことにし、姿勢をまっすぐな姿勢に保って祈りを捧げることと決めてそれを守るというようにすると「行」という面が加わります。

いっそう生活のただ中のこととして自宅玄関で履物を脱ぐ際、両方をきちんと揃えて脱ぐことに決めてそれを守る場合も「行」という面が加わります。
人と出会うおりに、極力爽やかな顔・できれば笑顔で、接する事と決めて、続けることも「行」です。
(仏教でこのやり方を「顔施」(がんせ)と言って尊ぶそうです)
早起きした早朝に体操とかヨガとかをする習慣、それも「行」という位置に置くことができます。

神様と親しい関係で生きていたいと望むと、このような「行」が果たす役割は大変大きいです。
外的な行いの積み重ねが、心を形作ります。
日本で自己形成する仕方としての「行」は、古くから大変尊まれてきました。
華道・書道・歌道などの芸道において。
また、健康増進や技能向上を願う体の鍛練において、などです。
このような「行」としての方法論を信仰の領域に取り入れるなら、次のような素晴らしい在り方が生まれ出る可能性があります。
それは、前進の方向も神様と親しくあろうとする在り方も巧まずして「体が覚えて」高まれるという純粋な達成です。
「体が覚える」「体が人間の高い在り方を自ずと表そうとする」ということは、なんと素敵なことでしょう。
そのことを目指して「行」に精出してみる。
すると、ここには神様からの恵みが注がれます。 こうして「行」を大切にするキリスト者には、ただ散発的に「実践」に励む場合よりもはるかに豊かな自己形成が実ります。
「行い」「実践」を大切にするのがキリスト者ですから、そこに「行(ぎょう)」の側面を添えることに努めて向上を目指したいものです。