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「信仰を生きる」際のことばの基本(2)【人生の深層に触れる日本語の三つの源流】

私たちには、信仰を生きるという課題において、力強いことばあるいはしっくり来ることばが必要です。
信仰について生きた理解を持つためにも、実践を目指して考えをまとめたり自分を鼓舞したりするためにも、心の深層と生き生きと響くことばが求められます。
そういう人生の深層と響き合うことばは、日本の先祖の人々が大切にはぐんで代々伝えたことばです。
以上のことばについて、日本には三つの源流があります。
第一には、平安の昔からはぐくみ育てられた「やまとことば」があります。
「つひにゆくみちとはかねて聞きしかどきのふけふとはおもはざりしを」
「何事のおはしますとは知ねどもかたじけなさに涙こぼるる」
などの例にみられる言語世界です。
「ゆく」「みち」「かたじけなさ」のことばは、豊かでかつ奥深い意味合いが響きます。

日本では、やまとことばに拠って立ち、和歌形式で表現する伝統が重きをなし、やがて俳句にまで枝分かれして、現代にまで流れています。
私たちの信仰を表現するのに、この流れにあることばのうち、人の深層を捉えているものを用いようとすることが、日本でキリスト教信仰を表現するために欠かせません。
具体的にたとえば、敏感な感性をお持ちの山浦玄嗣氏が、近年、『ガリラヤのイエシュー』という福音書の翻訳を出版され、その中にこの面を巧みに生かしておられるところから、私たちは十分に学ぶことが必要です。
山浦氏の鋭敏さはたとえば、具体的に「ヨハネ福音書」1章16節を「優しくて、親切で、/こぼれるほどに愛嬌がよい/このお方からわれわれは/恵みの上にもさらなる恵みを/背負いきれぬほど/いただき申した」と、訳すのです。
ここに、日本の信仰者のために、大きな示唆があります。
似ているヒントは、故押田成人師や、奥村一郎師などの著作に豊かに示されています。
源流の、第二は、奈良時代以来伝えられ続けた仏教界からの流れです。
仏教の信仰の営みが日本に紹介される源泉は漢文で表現されていました。
仏教世界の漢語もまた、私たち日本人の深層を表現するために、大切な伝統となりました。
私たちの先祖もみな、このことばの伝統によって心と生き方を育てられて来ました。

具体的な例として、「煩悩」「執着」「業(ごう)」「解脱」「救済」「無心」などがあり、これら数多くの漢語が私たちの心の深層に触れます。
私たちは、今後もこれらの漢語によって、信仰を生きる際の心と知性の杖にせねばなりません。
源流の第三は、時期としては上記の2つよりも後発となります。
そもそもの初発が上記の2つに有り、それらが更に広がりながら継承されてゆく中で育ったものです。
つまり、西洋化を迎える時期までに日本の人々が、暮らしに密着しながら、深い思い入れとともに、使い込んで来たことば群です。
それは、武士たちのはぐくみ育てたことばや、農工商の生活者がまごころ込めて用いたことばです。
武士たちは、常に刀を保持して、日々を生き死にに直結する感覚のもと、生活しました。
そこではぐくみ育てられたことばが、生きることについて、真剣ないちずさと深みを響かせたことは言うまでもありません。
具体的には、「一大事」「まことを尽くす」「至誠」「気合い」「いさぎよい」などという、はりつめた心からのことばです。
また、農工商の生活者が誠意を込めて、用いることを続けた深みあることばもあります。
「おかげさま」「恩返し」「おてんとうさまが見ている」「ばちがあたる」などには、日本人の思いの深さがこもっています。
上に見た、3つの源流からのことばは、私たちの血肉に沁み込んでいます。
神様は人間の深みに切実に関わられるお方です。
このようなお方に関わろうとするのですから、私たちは、上のような源流から届いて来ているところの、血肉に沁み込んでいるものを用いるよう、心掛けたいものです。