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「信仰を生きる」際のことばの基本(1)

キリスト教信仰を生き抜くについては、しばしば、一般文化の価値観と異なる道を辿らねばなりません。
したがって、そういう生き方の内容確認をし、また表現するために、独特な「ことばの用い方」を体得することが求められます。
その独特な仕方の基本的な一つを、故押田成人師(注1)の主張から学んでおきましょう。
(その思想が著された二つの本『遠いまなざし』と『祈りの姿に無の風が吹く』とに、見られる主張をご紹介します)
押田師は、人間の発する言葉について、「理念ことば」と「コトことば」の区分を提示します。

言葉といいますとね、現代人、現代の教育を受けた連中は、みなヨーロッパ的になっていて――悪い意味のですよ、良い意味のヨーロッパ的でなくて――理念的な言葉、意味の言葉、そういうものだと思っちゃうんですね。
言葉というものは説明のためにあるという感じになってくるわけです。
それは、一種の言葉であって、表面層の言葉なんです。
そういう言葉の奥に、日本語でいう”こと”「言」というか「事」というか、コトことばというのがあるんですね。
(『遠いまなざし』p.47)
理念的言葉に対して、このコトことばというのは、存在の全体に響くようなものを持ってるんです。
ハッと悟る時の言葉でもみんなそうですね。
意識を飛びこして、存在全体に関わっているんです。
日本語、日本の文化というのは、このコトことばの文化なんですよ。
日本の文化だけじゃない、人類の文化の本質は、このコトことばなんです。 理念ことばじゃない。
(『祈りの姿に無の風が吹く』p.33)
押田師は、「コトことば」が生き生きと用いられる一つの例として、次のことを述べます。
日本語では、そいつは手だねと言う。
手だねぇっていうのは、何かうまいやり口だなあっていうのも入ってるけど、それだけでもないね。
良いとこついたやり方を発見したなっていうのが入ってるけど、それだけじゃない。
これはコトことばだから説明できないんだよ。
僕は、話し人、そんなこと言ったら気違いだよ。
話し手というんです。あなたは、聞き手ですよ。
この手が大事なんだ。
手によってコトことばが起こって来るんです。
(『祈りの姿に無の風が吹く』p.34)
上の具体例から、展開して、信仰を生きる世界に次のようにつなぎます。
これが人生なの。こういう事ができるのが人間なんです。こうやって、本当の彼岸からの手とコトことばで語れるようになったら、それが人なんです。
(4文略)この手というのは、関わりですね。
コトことばというのは、この関わり、自分自身の関わりに結びついているわけです。
(『祈りの姿に無の風が吹く』p.67)
以上のような、枢要さをもつ「コトことば」が生かされる道について、次の説明も加えられます。
お百姓は稲を見た時に、
「あ、これ死んでる」
「あ、何かおかしい」
「あ、水が冷たいな」
と思うわけ。これは水が冷たすぎるとか、肥料が足りなかったんだとか、やっぱり稲が弱かったんだとかいろいろ反省する。
そういう言葉の先に稲の言葉を聴いているわけです。
(1文略)だから全部お百姓さんの表現する言葉もことの声、そういうものの意識への翻案なんです。
(1文略)その時には自分に説明するために、理念ことばも出てくるわけで、そこで難しいわけね。
理念ことばも人間は使うわけです。
だけども理念ことばがコトことばを運んでいる場合には、そこに理念ことばでも、真実性にあずかるわけです。
だけどその根源にあるものは、コトなんです。
それから、一人の人間が何か言う。
神は一度語った、私は二度聞いたというやつね(詩篇62参照)、事件としての言葉。
それが人間の本当の言葉なんです。
だから言と事とは区別できないんですね。
(『遠いまなざし』p.66-p.67)
(押田師は、言い尽くせない不思議な縁で寒風の中に咲く梅一輪に出会い、その感動から)
梅咲いて 梅の如し
この一輪に 会いに来し
この一輪というのはコトことばなんです。
あとにも先にもない、この一輪なんですね。
その声なんです。
これが、コトことばなんです。
これはね、過去・現在・未来の世界は全然入らない永遠の世界なんです。
だからコトことばには、この現実の世界での存在との響き合いもあるし、未生の世界との、ありがたい世界との響き合いもあるわけです。
人間のあずかり得るあらゆるものが、コトことばにあるわけです。
だから意味ことばのように簡単じゃあございません。
統制できないんです。どれをとってみても統制できないんです。
だからわかるものじゃないんです。味わうものなのです。
(『遠いまなざし』p.70) 「ここに居るのは、神とあなただけだ!」こんな事言われたら、これ意識がとまどうね。
だけど意識の奥の方ではもう捕えられちゃってる。
なぜだろうってね。
意識は、一生懸命悩むわけですけど、そういうコトことばを受けるもっと深いところが人間にはあるんです。
それでなきゃあ、受け取れないんだから。
深層心理学とかいうものもあるけれど、そういうのはみんな表面層の意識との混同があって、もう一つはっきりしてないんですね。
だけどもっと深い部分があるんです。
それは、意識の世界じゃないんですね。
誘われるんです。
誘われる息吹っていうか、その風っていうのは、ずっと奥から来るんですよ。
(『祈りの姿に無の風が吹く』p.23-p.24)
私たちは、信仰を生きるにあたって、ことばの用い方について、押田師の上述の説に導かれたいです。
「真理探究こそ、信仰のかなめ」「贖罪信仰を強化して教会復興をめざす」「万人愛の実践で宣教に成果をもたらす」などというように、理念ことばを用いるにあたっては、細心の注意を注ぎたいです。
押田師の励ます方向、つまり、自分の一番の深みにつながって、彼岸からの息吹(聖霊)に導かれるように努め、物事ひとつひとつに誠意を込めて全存在として関わりながら、生まれることばを用いて行きたいです。
(注1)故押田成人師
ドミニコ会司祭で、1922年生まれ、2003年帰天。1960年代半ばに長野県の八ヶ岳山麓・高森の地に、草庵風の修道院を開く。
高森は、周囲に多数の縄文遺跡を擁し、また八ヶ岳の雪解け水が泉となって湧く地でもある。
この草庵で、土地を耕し、思索をし、そして、道を求めるすべての来訪者と交わった。
著作および講演・談話筆記として、以下の本がある。
『遠いまなざし』 『道すがら』 『孕みと音』 『地下水の思想』 『九月会議』 『ばらのまどい』 『藍の水』 『祈りの姿に無の風が吹く』 。
さらに、四福音書の翻訳にも精魂傾け、各々出版されている。この草庵のホームページには、 http://www.dominicos.telcris.com/ine.takamori.htmでアクセスできる。
なお、この草庵の霊的な様相は、本ホームページ「日本キリスト者の祈りと表現」の「典礼や実践」のコーナー、【6】と【7】と【8】とに表現されている。

ここに、日本の信仰者のために、大きな示唆があります。
似ているヒントは、故押田成人師や、奥村一郎師などの著作に豊かに示されています。
源流の、第二は、奈良時代以来伝えられ続けた仏教界からの流れです。
仏教の信仰の営みが日本に紹介される源泉は漢文で表現されていました。 仏教世界の漢語もまた、私たち日本人の深層を表現するために、大切な伝統となりました。
私たちの先祖もみな、このことばの伝統によって心と生き方を育てられて来ました。
具体的な例として、「煩悩」「執着」「業(ごう)」「解脱」「救済」「無心」などがあり、これら数多くの漢語が私たちの心の深層に触れます。
私たちは、今後もこれらの漢語によって、信仰を生きる際の心と知性の杖にせねばなりません。

源流の第三は、時期としては上記の2つよりも後発となります。そもそもの初発が上記の2つに有り、それらが更に広がりながら継承されてゆく中で育ったものです。
つまり、西洋化を迎える時期までに日本の人々が、暮らしに密着しながら、深い思い入れとともに、使い込んで来たことば群です。
それは、武士たちのはぐくみ育てたことばや、農工商の生活者がまごころ込めて用いたことばです。
武士たちは、常に刀を保持して、日々を生き死にに直結する感覚のもと、生活しました。
そこではぐくみ育てられたことばが、生きることについて、真剣ないちずさと深みを響かせたことは言うまでもありません。
具体的には、「一大事」「まことを尽くす」「至誠」「気合い」「いさぎよい」などという、はりつめた心からのことばです。
また、農工商の生活者が誠意を込めて、用いることを続けた深みあることばもあります。
「おかげさま」「恩返し」「おてんとうさまが見ている」「ばちがあたる」などには、日本人の思いの深さがこもっています。
上に見た、3つの源流からのことばは、私たちの血肉に沁み込んでいます。
神様は人間の深みに切実に関わられるお方です。
このようなお方に関わろうとするのですから、私たちは、上のような源流から届いて来ているところの、血肉に沁み込んでいるものを用いるよう、心掛けたいものです。