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「み国」「支配」と捉えるのみでなく「里」で「世話してくださる」とも捉えたい

偉大な神様ですから神様が治められる場の全体をまとめて「国」と捉えるのがカトリック教会の伝統です。
そして神様の大きな能力によってすべてがその支配下に置かれ、神様は「支配する方」と伝統的に捉えています。
その他、神様についてその権能の面が注目されて「王国の統治」「万軍の神」という捉え方も伝統的です。
同じく、キリストについても「キリストの王国」「キリストの御国」という伝統的な捉え方が行なわれます。

神様が居られて、人々が居る。人々は、地の上で営みを繰り広げる。神様も、歴史を共に歩んでおられる。
この歴史について人間の側のせめぎ合う動向に影響された「力」の支配の面が強く意識されると、神様についても上記のように捉えることとなります。
しかし私たちは、その面からのみ見ることを抜け出したいです。
キリストの柔和で、親切で、慈愛深い御心に触れるとき、上記の捉え方の類は、キリストの真相を示すために不具合になることが多いです。
キリストは、果たして、いかめしいばかりなのでしょうか?
キリストは、人間の側の限界やつつましさとは無縁の英傑なのでしょうか?
キリストは、高みにあって人々を指図するばかりなのでしょうか?
神様と共に在る「場」を捉えるために、「御さと(里)」にあって「世話する方」という捉え方を導入したいです。
あるいは、「御さと(里)」にあって「養育してくださる方」。
さらには、「養い育て」「はぐくみ育て」「励まし」「力づけて」くださる「御さと(里)」の「御父」「み親」だと感じ取ること、このような感じ取りの心を保ちたいです。

さらに、私達の祈りの世界や典礼の領域においても、この捉え方を生かしたいです。
「里はどこですか?」と尋ねるのは、「生まれ育った所はどこですか?」という質問です。
また、「お里が知れる」という言い方で「その人の生まれ育った環境が判ってしまう」「その人の家庭の様子が判ってしまう」と表します。
そして、「ふる里」といえば、「故郷」となります。
神様が世話して下さる場を「里」と感じる場合、

  • 支配関係ではなく、人情と思いの丈で関わり合う関係性の場
  • 人としてのやさしさ・和み合い・交響し合う心が生かされる神様との共存の場
と、思うことができます。

歴史の中に居られて人々と共に歩んで下さりながら神様のなさり方とお心は、慈愛に溢れて・みずみずしさがあって・親切で・柔和で・小さい人のことを特に心にかけてくださり・生みの父であり育ての父でおられるのです。
このような神様と共に在るのですから、神様を「里」において「世話してくださる方」というように表すことを重んじたいです。