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「達」の字で信仰生活の表現を豊かに

日本では、精神性の豊かさを「達」の字のつくことばで表す場合がしばしばあります。
「外交手腕の達人」「芸達者なので多くの人から好かれる」「何事も先達の意見を伺うのがよい」「書道の筆遣いに熟達している」「永年の瞑想から人生を達観するに至っている」「瞑想によって悟達できている」などと、言い表わす豊かさがあります。
通常の生活場面でも「三年間無遅刻で出勤する記録を達成した」とか「英語に驚くほど上達した」などと「達」の文字が生き生きと役割を果たすのが日本語です。
このような「達」の字を用いる発想の根のところには、人間が訓練・鍛錬すると能力が伸ばされ、技能や精神性が高められるという認識があります。
修行とか鍛錬とかがもたらすものの大切さと尊さとが注目されています。
キリスト教信仰においては、神の恵みの面が重視されますから人間の努力や修行や鍛錬の面は後回しにされる傾向にあります。

神様が届けてくださるものに対してできる限り自分を開き、神に委託するようにと促されますので自分の力に頼りすぎたり、自己救済的になったりすることを警戒します。
けれども人間は、自分がどのように神様のお恵みに協力するのか、その責任も負う存在です。
「神様のお恵みに十分に協力する」ことのためにそこに向かう準備段階においては、修行や鍛錬が必要です。
恩恵を待望し委ねる根本姿勢を保ちながら人間としての鍛錬や修行も取り入れねばなりません。

そこで、永い鍛錬の後に「祈りの達人」「瞑想の達人」になれるなら、とても幸いです。
そういう方向に進もうとするためにも「達人」という把握の仕方が用いられると良いはずです。
たとえば、この方向性において「アシジのフランシスコは、自然を通して神を賛美する達人でした」とか、「ロヨラのイグナチオは、霊的向上の道を組織的に組み立てて前進する達人でした」というように表現することは、それぞれの聖なる境涯を私たちが目標とするのに親しみを持てるにちがいありません。
上のような表現の道に似るものですが、「典礼の営み方に熟達する」ことや「識別することに熟達する」ことも鍛錬とか訓練とかを前提にしつつ、身近な事柄として目標に据えたいものです。
信仰の道の「先達」を尊敬することも必要です。

私たちは、信仰の道について年上の方々を「先輩」のことばで捉えたり表現したりしますが、そういう方々の中に「先達」ということばこそあてはまる尊敬すべき方々があります。
敬意を込めてそういう「先達」の存在をを認知し、関わらせていただきたいものです。
「達者」ということばは、暮らしにおいてなじみが深いことばですが、キリスト教信仰の道においても「達者な祈り手」「達者な奉仕者」「達者な財務委員」など表現し、けれん味のない仕方での高い評価を示したいものです。
幾世紀にもわたって「達」の字に日本の先人が豊かで気高い意味を込めて来たその流れを活かしてゆきたいです。