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「悪」「罪」のみ用いるのでなく「邪」「闇」「魔」「毒」なども用いて

神様のおいのちの営みは、人には測り知れない深み・気高さのうちにあります。
人に関わってくださるのですが、そのなさり方の深み・気高さは、人知で追いつけるものではありません。
神様の似姿の人間も、また驚くほどの深みと広がりのうちにいのちを営みます。
そのような人間の、神様に対する蒙昧・ひねくれ・ゆがみ・破壊性は、「悪」「罪」と伝統的に捉えられて来ました。
キリスト教の永い歴史において、「悪」「罪」という捉え方で整理し、人生観・世界観を形づくる根幹の一つとして来ました。

こうして、「悪」に負けないように、そして「罪」を犯さないように、と神に向かう歩みの中心を方向づけるのが常です。
ところで、人間の驚くほどの深みと広がりにおいては、「悪」「罪」の価値判断の物差しを当てはめられない領域さえ存在するように思われます。 人の心の深みにおいて、否定的な動き、下降的(破壊的)な動きとして、「邪」と捉えるべき動き、「闇」と捉えるべき動き、「魔」と捉えるべき動き、「毒」としか言いようのない動き、などが存在します。
人の心の動きが、正道を逸してひねくれていたり、神様の至純さの前で思い上がりからの不当さが孕まれていたり、そういう「邪なるもの」は、人の心に忍び入りがちです。
その機微を捉えるためにも、「邪」「闇」「魔」「毒」などの語が、「悪」「罪」に加えて用いられる必要があります。 この「邪」と捉えられるものは、「悪」と判定できる領域を超えるところがある感じです。
その微細な機微においても、多方向への広がりにおいても、「邪」なる動きが、人の心に忍び入り、巣食ってしまいます。
「邪道」を嗅ぎつけることに、日本人は敏感です。(「邪道」に向かうと、いっ時良くても長い期間の後に、災禍が生じるからです。)
上の心の動きに似ていて、破壊的であったり、暴力的であったり、荒涼と荒れていたり、ドス黒い感情が湧いたりする動きは、「闇」の感じです。こういう心の動きは、「悪」と捉えてみるよりも、更なる深みと怖ろしさのある、いっそうひどいもののように感じられます。
「心の闇」は、得体の知れないものを隠しています。
道を失うまでに到らずとも踏み踏み誤って、人を傷つけたり、自分が傷ついたりします。
せっかく築いた自分の人生の建築物を破損することが頻繁に発生します。
このような心のありさまは、「悪」「罪」と表現するのみでは、その真相に迫れない歯がゆさを感じます。「闇」「心の闇」という表現が求められます。
キリスト教の伝統的な認識において、人の心の怖ろしい発現に出会うたびに、「悪魔の誘い」「悪魔が忍び込む」という認識をします。
いっぽう、東洋において、「魔がさす」「魔の手にあやつられる」「魔性(ましょう)を帯びる」などと捉える鋭利さと深さは、いっそうの深部と機微とに触れる感じがします。
「毒」「毒気」「毒を注ぐ」というような表現も不気味です。
こういう生々しい不気味さが、人間の心の深部に存在します。

そういう深部から顔を出してくる言動を日本では、「毒を帯びる」もの、「毒をはらむ」ものと表現して来ました。
「悪」「罪」という捉え方では、この生々しさ・不気味さに触れない感じです。
神様の「おいのち」は言いようもない鮮烈さで営まれていますが、その神様に似るものとしての人間が、その真反対に向かう場合も、動きは鮮烈になります。
「邪」「闇」「魔」「毒」などの語で捉えられるような、不気味さ・鮮烈さです。
鮮烈という面だけではありません。心のあらゆるひだに忍び入っている機微もまた、神様の前に立つ人間の心の特徴です。
その機微を捉えるためにも、「邪」「闇」「魔」「毒」などの語が、「悪」「罪」に加えて用いられる必要があります。