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「まこと」「まごころ」が染みとおる福音世界【「真理」の語に偏らずに】

私たちは、日本語訳の『聖書』の中で、しばしば「真理」という語に出会います。
このことばが、移ろいやすい人の世で生を営む私たちに、まことの拠り所となる不変の尊い在り方を指し示していて、そこにこの上なく大切なものが存在することは、言うまでもありません。
一方、「人となられた神」が、人のために尽くしてくださったなさり方を見るときに「真理」ということばが示しきれていない、別の尊い面を見なければならないと招かれます。
人となられた神であるイエスが示された言動、そこに「真理」に満ちたものを感じようとしてよいわけですが、実は、少々角度の異なる大切な面が現れているのを、見落とさないよう細心の注意を払わねばなりません。

たとえば、最後の晩餐の席で、イエスが弟子たちの足を洗われる場面を見てみましょう。大変に尊いご身分の方が、弟子たち一人ひとりの前で膝をつき身をかがめられます。
そして、一人ひとりに足を前に出すように促され、出された足をご自分の手で洗われます。
「御子が、これほどまでになさる」と、いうことに誰しもが驚きます。
また、受難の足取りにこもるものを見てみましょう。
この時を迎えるまで、「真実」を貫いて嘘いつわりなく生き抜かれ、また今、それを貫徹されます。
受難ということと生命の捧げということに、意味深さの極みを見てそれを引き受けられます。
精魂を傾け、渾身の力をふり絞って、その歩みを辿られます。
「真理を表し出す」という面がありながら、それ以上に、人としての「まこと」を尽くし、「真実」の限りを追い求め、「まごころ」を尽くさずにいられない、御子のお姿というべきなのです。

人生というものに、また関わる人々に、「まこと」を尽くし、「真実の限り」を追い求め、「まごころ」を尽くすからこそ、その歩みをなさるのです。
身近な表現でいえば、「一生懸命」の極み、「精魂傾けて」救いの道をたどられるということです。
弟子たちの足を洗われたり、受難といのちの捧げの道をたどられる生き方について、「真理」という理知的な捉え方では不足で、全身心をあげて、心の極みまでを尽くしておられることを見なければなりません。
ことばの選び方としても、「まこと」を尽くす、「まごころ」を込める、「真実」の限りを追う、ということで捉えられるものを捉えねばなりません。
「正真正銘」の「ほんもの」の生き方という表し方なども、「真理」ということば偏重になる弊害に陥らない助けになります。
『新約聖書』の従来の日本語訳において、「真理」と訳されるもともとの、ギリシャ語は、「アレテイア」です。
この 「アレテイア」には、「真理」と訳される意味のほかにも、「真実」「まこと」と訳される意味があります。
「真理」という訳語が多く現れるヨハネ教団の文献の中に、少々入り込んでみましょう。
この教団は、イエスのことを「みことば」(ロゴス)と捉えます。
そして、イエスの生涯の結びのころに、ピラトと対峙するときイエスは、
「私はアレテイアについて証しするために生まれた」
と言われ、これに対してピラトが「アレテイアとは何か」と問うように表現します。
ここには、理知的・知性的な仕方で、「永遠不変で」「絶対根拠になる」方の「真理」そのものであることを示そうとする著者の意図があるのは明らかです。
しかし、そういう著者も、理知的・知性的な仕方ばかりに深まろうするのではありません。
「ヨハネ福音」は、神様の営みに見られるなさり方について、活発な関わり遂行の面を決して見失うことはありません。
「私が父のわざを行なっていないなら、私を信じなくてもよい
しかし、行なっているなら、たとえ私を信じなくても、わざを信じなさい
そうすれば、父が私の内におられ、私が父の内にいることを、あなたたちは確かに知るであろう」
(ヨハネ福音10章37-38節)
「私が父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい
それが出来ないなら、わざそのものによって信じなさい
よくよくあなたたちに言っておく
私を信じる人なら、私のしているわざをその人も行ない、また、それ以上のわざを行なうであろう」
(ヨハネ福音14章-11節)
などとあります。
読者は、盲目の人の目を開き、死んでしまったラザロを生き返らせ、弟子たちの足を洗い、そして結びに受難のうちに命を差し出す生き様を信じるように招かれます。
「真理」の面を、愛のわざから決して引き離さない捉え方、極みまで人を慈しむ心のほとばしりを捉えようとする仕方――そこで、私たちは、「まこと」そのもの、「真実」そのもの、「まごころ」そのものが染み通っているのを、認知するよう求められます。
(以上のことは、聖霊に言及する場合も同じこととなります。
聖霊が人に臨まれるとき、人は、知性も照らされますが、生き抜くための、愛・喜び・安らかさ・親切さ・誠実さなどを提供して、人が充実して生き抜くように働きかけられるのです。)
そもそも「真理」という語が日本で大きな役割を与えられ、重んじられるようになったのは、封建時代が幕を閉じ、西洋文化の吸収に熱意を込めるようになった明治以後のことです。
長い間仏教思想の中などで用いられて来たこの言葉が、日本の近代化を求めて、理知的に学問を組み立て思想を練り上げることに意欲を燃やすようになって、注目されるに至り、脚光を浴びるようになったのです。
以上の精神的な枠組みは、ユダヤの人々がギリシャ文化に接触した新約の最初の使徒たちの精神状況とも、似通っていることでしょう。
理知的に「教え」を誤りなく捉え、そして人生の道筋を絶体的なものさしでありゴールである神に向かって明らかにしておきたい熱意が、「真理」としての「アレテイア」を求めたのでしょう。
いっぽう、人となられた神が、人々を救うために開かれ招いておられる道筋は、上の方で述べた道筋です。
人間の全身心をあげて「真実」に徹し、「まごころ」を込めて(「まこと」を尽くして)一挙手一投足を神に向けようとする道筋です。
こうして、『新約聖書』の著者たちが「アレテイア」の語に託している尊い意味合いについて、理知的・知性的な高み(深み)を示して「真理」と訳される意味(とくに手紙で)も認知しつつ、次のことを決して欠かさないように努めて行かねばなりません。
それは、この世に人間となって入って来られ、その尊い生き様において、現わされている神の「アレテイア」には、「真実」に徹し、「まごころ」を込めて(「まこと」を尽くして)いのちを生き抜く意味が欠かせないと認知し続けることです。