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「平和」を補足する「安らぎ」「安らか」

「平和」と訳されたことばの原語は、ヘブライ語では「シャローム」、ギリシャ語では「エイレーネ」。
ヘブライ語の語源的な意味は、示唆に富んでいます。
そこには、「完全無欠(建物の完成の場合など)」とか「物事を完全な状態に戻す」とかの意味の響きがあります。
このことからして、「シャローム」には、個人として完全な幸福が実現している(完全な幸福状態にある)という意味が現れているわけです。
そして、この状態が実現されるのは、人間のわざで可能になる類ではなく、ひとえに、過ぎ越しを完成なさったキリスト(その計画を遂行なさった御父)だけが達成してくださるものです。
復活なさったキリストが、絶えず「あなたたちに平和があるように。」とか「安かれ。いとしい者よ」と繰り返されるのは、軽い挨拶ではありません。
偉大な過ぎ越しの完成によって、勝利し、すべての領域で「統べ治め」られる御方が、私たちに「完全な幸福」をもたらそうとしておられるから、「平和が確かです」「揺るがない安らぎが確かです」と、伝えようとなさっているわけです。

私たちは、イエス様に委ねて、その「平和」「安らぎ」に与かるのです。

さて、私たち日本人が、この面の神様からのお働きを表すにあたって、「平和」の語のみに頼るだけでは、その豊かなお働きを十分に表わせません。
以下にその状況を説明しましょう。
人間が体験する切迫した重い事態のうちでも、もっとも切迫している事態は、臨終(死)間際の事態です。
それは、本人も近親の人も、他の一切の物事を脇に放り出して、正面から向き合う事態です。
そういう切迫した事態において、当人の穏やかさが現れている場合、「平和」というよりもむしろ「やすらぎ」「やすらか」と、私たちは言います。
また、人生で、避けられない厄介ごとの一つは、病気です。
人生で前進に努めるうちに、種々の障害が現われますが、病気になると自分の無力さを思い知らされます。
そういう行き詰まり感において事態を心から受け入れられるときに、ようやく「やすらか」になります。
「やすらぎが訪れる」とも言います。
葛藤やストレスに追いかけられるような日々に、日常から逃れて、大きな自然の中に身を置くなり、気心の知れた仲間の輪の中に身を置くときに、葛藤やストレスが消えると、人は「あぁ、平和だ」と言うよりもむしろ、「あぁ、やすらぐ」と言います。

以上の表現の仕方には、たしかに「不足することの無い完全な幸福」というニュアンスがよく現れています。
いっぽう、「平和」という語には、「やすらぎ」「やすらか」にはない、別の優れた意味の広がりがあります。
複数の人間が関わり合う人間現実の場において、その場が一人一人を受け入れて、誰もが不足を感じない状態という場の構成状態を含み込む意味合いがあります。 つまり、人間の生活の社会的な広がりや人間関係において、調和のうちに不足を感じないでいられる状況を示します。
第二次世界大戦において、広島市は惨劇に見舞われましたが、その中心部にある「平和記念公園」は、この言葉の生かし方の典型を示しています。
この場所で人々は、「平和」を願い、「平和」を考え、「平和」の達成の仕方を論じます。
生き生きとした「平和」の語の用い方があります。
ところで、人々は、犠牲者の死を悼み、安息を願うときに、「どうぞやすらかにおやすみください」「やすらかにお眠り下さい」と言うのです。
ですから、「やすらぎ」「やすらか」の語が必要になるのは、一人の人の最奥や心のひだの隅々まで、不足がなく調和して落ち着く様を示す場合です。
初めに述べましたように、信仰者における「平和」「安らぎ」は、神である御方が統べ治められることによって、「完全に満たされた幸福」に与るという、気高く、力強く、聖なる状態です。
私たちは、或る場合は「平和」を用い、また或る場合は「安らぎ」を用いつつ、人間的な情緒レベルだけのものではない、この高度で気高い状態を目指したいものです。