1. ホーム
  2. 深める・広める
  3. 日本キリスト者の祈りと表現
  4. ことば

からだ・言葉の力(4):神様(キリスト様)の「渇き」(「渇く」)

霊的な面で満たされないまま続く場合や強い求めを抱き続ける場合に、からだのあり方になぞられて「渇く」「渇きがある」と、キリスト教霊性において、しばしば表現します。

  • 一生懸命に探し求めているのに見つけられない
  • 良いことが生まれよかしと切望しながら尽くしているのに一行にに実りがない
  • 本当の意味に出会いたくて探しているのに見つからない
  • ほんとうの自己実現をしたいのにそれが出来ない
  • ほんとうの愛の交換をしたいのにその交換が出来ない
  • 孤独を辛く感じ、ほんとうのつながりを得たいのに得られない

このような「善意のあふれ」「向上心のあふれ」からのがんばりも実りを得ない場合に、その心満たされなさ・あえぐような辛さ・切実な渇望について、抽象的に言うよりも身体的な感じ取りを譬えにして「渇く」「渇き」があると捉える(表現する)ことは力あるものです。
神様やイエス様の「渇き」も聖書の中でかなり多く言い表されて来ました。
イエス様の「渇き」は、聖書の中でくっきりと切実に訴える力をもって示されています。
その「渇き」がもっとも切実に示された場面は、十字架の上で「渇く」と、言われたところです。
(ヨハネ19章:28節)

ここに共鳴するような場面として次のものもあります。
それは、同じ福音書の「サマリアの婦人」の場面です。
身体的な意味が濃い表現ですが、お心の「渇き」も響きます。
「サマリアの一人の女が水を汲みに来た。イエスは『水を飲ませてください』と仰せになった」
と、あります。
さらに「渇く」とか「飲む」とかの言葉こそ無いのですが、「ルカ福音書」の次の場面もイエス様の心の切実な「渇き」を伝えます。
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。
だが、お前たちは応じようとしなかった。」
(13章34節)

イエス様の深い「渇き」が示されるとき、それは、父なる神様の「渇き」でもあると感じられます。
神様の私たちへの思いを感じ取るのに「神様が渇いている」「神様に渇きがある」と、身体的な譬えの仕方を用いることの力強さ、訴える力の豊かさを生かしたいです。
創造なさった神様には、人間ひとりひとりはとても尊い存在です。そのひとりひとりを強く深く大切にし、愛を交換することを望んでくださっています。
一方、人はなかなか神様のその思いを感じ取りません。
ここに、神様の「渇き」が募り、それが累積されて激しい「渇き」になっています。
水を飲むことができない状態で「喉が渇いている」辛さ。
水分補給が叶わなくてからだ全体で「脱水症状」のようになる苦しさ、神様のお心の辛さ・苦しさをこのような感受の仕方も生かしながら捉えたり表現したりしていきたいです。