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離れつつ関わる

よく祈って、神様によい奉仕が出来ることを望む人は、現実に目を向ける向け方が特殊なものになります。
また、現実に関わる関わりの心の持ちようも特殊なものになります。

現実そのものは、神様ではありません。
どのように、“尊いもの”“尊いこと”も神様ではありません。
この世の現実において、神様ご自身と認知して(または、直結しているものとして)全力で関わらねばならいのは、秘蹟の実質部のみです。
それ以外は、神様ご自身ではありません。

神様ご自身でないものは、そこに「人(自分)の全部を」注ぎ入れるべきではありません。

別の言い方をすれば自分は、心の中で“神様でないものに自分のすべてが巻き込まれてしまう”ということのないように、隙間を作ります。
心は、眼前の物事に対して距離感(隙間)のある構えになり、やや離れた感じを保持し続けます。

それと同時に、神様に向かいたいのですから、神様のお望みには忠実を尽くします。
「神様に愛される子供でありたい」また「神様とともに幸せを目指したい」と一生懸命です。

それですから、自分に関わりが続くすべての人や物事に、誠意を尽くします。

私の心の中心のところには、今までの祈りや、奉仕的な働きによって培われた神様に向かいたい思い(潜在的な方向付け)があります。
その思い(方向付け)が、感覚刺激や対人的な思惑(気遣い)によって、消えてしまわないように注意するわけです。

現実界に存在する多くの物事に対して人は、とても強く牽引されます。
魅惑され続けたり、引き付けられ続けたりします。

ゴルフ競技、アニメーションや映画を鑑賞すること、音楽演奏すること、財産・資産運用、旅行など、枚挙にいとまがありません。
こういう一切に対して、離れようとします。

以上のような“対象にのめり込まない”という心の持ちようは、言い換えるなら対象の物事や人物について、その関わりの営みに永遠的な意味・価値・役割を感じようとするのだと言えます。
目前の“瞬間的”とか“一時的”な、意味・価値・役割に没入し過ぎずに永遠的なところを見つめながらそれらと関わります。

前述したように、こうする道は、決して冷ややかな態度の道ではありません。
ただ、永遠的な意味・価値・役割の感じ取りが中心にあるというわけです。

この心の持ちようによって、神様の来訪のためのスペースがいつも心に用意されます。
神様が訪れてくださる場合に私の方は、その訪れを迎える感性と心の場とを用意しています。
心に安らかさがあり、気付きが鋭敏で他の人格に開かれており、縛られない広さの視野に立ちます。
それが、いつも続きます。
このように構えている心は、来訪される神様をいつもお迎えして喜べます。
それはまた、福音書に描き出されている「イエス様の関わりの仕方(方法)」と、近似するものになって行きます。
イエス様の言動の特徴を味わいながら自分の暮らしの営みを展開します。