神様は、人間に命をお与えくださる際に、一人ひとりに独自の資質の持ち味をお与えくださり、あわせて、人生を築くことの特別な期待をかけられます。
それは、一人ひとりかけがえのないものとして、神様の方から届きます。
かならずしも天才的な輝きのように与えられるというわけではありませんが、誰にでもその人ならではの光るもの、豊かなもの、が届いています。
その事実は、明瞭にどこかにしるしを持って示されているわけではありませんが、私たちはしばしばそういう思いを持ちます。
詩編139に、
「あなたは、私の内臓を造り、母の胎内に私を組み立ててくださった。
私は恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。
胎児であった私をあなたの目は見ておられた。
私の日々はあなたの書にすべて書き記されている。
あなたの御はからいは、私にとっていかに貴いことか」
と、描かれたところに深くうなづきます。
そしてこのことは、いわば上からの神様の方からの見方です。
上述の見方と同時に、他方で、人間の側の下からの見方も、育ちます。
「自分は他のどの人とも同じではない。自分独特の長所と短所がある。
こういう自分は、また、「三つ子の魂百までも」というように、年代や場所や状況がどのように変わっても、求め続けたい何かをもっている」
「私には、深いところから意識的にあるいは無意識的に憧れ続けている、方向(ゴール)がある。
是非とも達成したい何かがある」
以上のように思い巡らして来ますと、上からの見方と下からの見方とが一つに結ばれる点があるのに出会います。
そのような「方向(ゴール)」「達成したい何か」に向かうおりには、「好きこそものの上手なれ」で自分の可能性が引き出され、好結果に至りやすいものです。
そもそも、自分の得意わざのようなものが生かされるわけで、生来自分に備わっている長所や豊かな部分をたくまずして生かすこととなります。
深い憧れに根ざす「方向(ゴール)・達成したいもの」ですから、それに向かうならば私は、人生のやり甲斐が何倍にもなります。
意欲が溢れます。
一生懸命になれて、よい成果を達成できます。
古来、日本でこの「出会う点」を見出した場合、「天職」と捉えました。
最近のキリスト教霊性においては、「固有の召命(パーソナル・ボケーション)」と表現します。
たとえば生来、ことばが泉のように湧き出る素質を恵まれた人があります。
そして、そのことばを人前で声高に発するよりも文字に綿密に表す方向に長(た)けている場合、文筆の道が古来耕されました。
この道に天職を見出す人々が多数有ります。
同じことばの賜物を恵まれても、それを人前ではなやかに表現することに向かいたい人々は、ステージや放送局で天職を遂行します。
世の片隅に置かれた人(障害があるとかその他の理由で)、そういう人への共感が、生来強い人もあります。
(マザーテレサもそういう一人であったかもしれません)
このような人は、温かい思いやりの心で寄り添ったり世話したりするところに天職を見出します。
自分の資質・持ち味・個性・深いところからの望み、心をひそめて丁寧にそれを見出したいです。
そして、それをよく感じ取ったうえで神様との親しい交わりにも深まりつつ、天職(固有の召命)に従事することを選びたいです。
大きな局面での道筋の選びも、細かな局面ごとの道筋の選びも、この天職(固有の召命)に向かうよう努め続けたいです。
この歩みにおいて、資質をよく生かせる喜びも、前進しやすい安らかさも、成果が得やすい楽しみも、人々との共感が深くなるありがたさも届いて来ます。