前章でにおいて、上からの見方と下からの見方の出会う点を見出すところを描きました。
この出会う点については、実は、いっそう細やかに感じ取ることへと招かれるのです。
神様との出会い方・関わり合い方の妙味と深みが存在します。
神様が私たちの相手をしてくださるのですが、神様は、一人ひとりにそれぞれの個性的な仕方を用意されます。
その個性的な仕方は、神様と人との交わりのチャンネルのようでもあり、橋のようでもあり、符号体系のようでもあり、ダンスミュージックのようでもあって、ともかく、その人とだけ通じ合う(響き合う)道筋が用意されています。
神様が人の相手をしてくださって人が神様に似る方向で開花できることについて、聖書の示すところは、
と、いうものです。
上からと下からとが出会うために私たちはまず、聖書にあるような善い天分のうち自分はどの天分をいただいているのか、思い巡らします。
そして、ここでいう天分とは、霊的な方向で秀でる類です。
神様との生き生きとした交わりが達成されるには、心の深みにおいて(霊の動きとして)人それぞれの傾向があります。
もし愛の面で神様と生き生きと交わることが出来る道を恵まれているとすると、その愛の道は、
などという具合に、人それぞれの角度に開花させて、それぞれ神様と生き生きと交わるものです。
一人ひとりは愛の表現の仕方について、それぞれにリズムやトーンや姿の違いを持つのです。
喩えて言うなら神様とダンスをするというイメージです。
愛のダンスでもそのリズム、そのおもむき、その動きの表情は、パートナー一人ひとりと個性の異なる仕方を神様が用意なさるのです。
そういう個別のダンス(パートナーに最適のもの)を神様がリードして生み出そうとしてくださるのです。
以上のような愛し方の特徴について、シンボルでぴたりと当てはまるものがあると思います。「春風」「母の胸」「ほほ笑み」「燃える炎」など。あるいは、キャッチフレーズとか言葉で言い表すことができるかもしれません。「知られない愛」「太陽のような愛」「正義が浸透する愛」「忍耐強い愛」「創造する愛」「ゆるす愛」などという具合です。そして、このシンボルや言葉は、福音のメッセージとしっかりとつながっているはずです。
ここまでは、愛を例にして、一人ひとり異なる開花のさせ方と神様との交わりを見ました。自分の天分と神様との交わりの仕方の個別的な差異は、愛の分野だけで見て見尽くしたかというとそれはまったく足りません。人の天分の開花のさせ方と神様との交わり方の特性は、或る場合には愛ではなく「希望」という分野、また他の人々は「信じる」という分野、また他の人々は「正しさ」の分野……と、その広がり具合は、多様です。(それもそのはずです。神様がそれほどに豊かで幅広い方なのですから。)……そしてそれぞれの分野においても、愛の分野において見たような個性的な違いが見られ、多様な広がりが存在します。
自分の固有の召命が捉えられると、日々の生き方において、人はたえずこの道に収斂していたくなります。(ここまで掘り下げて来ると、「天職」の言葉には限界が生じます。「固有の召命」という捉え方に進む必要が生じます。)そういう使命感、そういう指標にいちずに向かいたくなります。この召命が生かされる選択をしたくなります。そこには、生き甲斐があふれ、熱意が湧き、希望に富み、心の躍動が現れます。
私の豊かさになっているもの、私の天分であるものは、つづめて捉えるならば、神様の比類ない豊かさや善さから分かち与えられたものです。神様が言い尽くせない豊かさと善さに溢れた方ですから、この方に造っていただいた人間一人ひとりは、それぞれの個性になるような豊かさや善さを分かち与えられているわけです。
こうして、暮らしの中の観想の実りの一つが、固有の召命の道を辿る充実感と躍動感と幸福感の姿となって現れます。