今まで歩んで来た自分の歴史には、数々の試練がありました。
小さな試練も、大きな試練もありました。
小さな試練の数々。
具体的に見つめなしてみましょう。
その辛い試練をがんばりの心で乗り越えました
そこから、忍耐強くなりました。謙そんさが増しました。
周りのことを見る目が広さ深さを獲得しました。
自分が、自己養成しようとしてみても盲点になってしまう部分を神様がはからわれたのを感じます。
そして、そのような試練を乗り越えるたびに自分はそれ以前よりも豊かさや大きさを増しました。
神様は、試練をくぐるように計画され、それを通して私を育ててくださっている、まことに「父」でおられると解ります。
大きな試練に目を移してみましょう。
人によっては、最も大きな試練のことは、目を向けることを避けたいかもしれません。
ともかく、目を向けることのできる、
大きなものをじっと見つめてみましょう。
その体験の当時には、「神様、あなたはこれほどもお求めになるのですか?」「これほどですか?」「神様あんまりです」と申し上げた日々。
その暗鬱で絶望を呼ぶような日々。
けれども、神様を呼ぶことはできました。
神様を呼ぶことばは、平常時よりも、むしろ切実で深みがありました。
大きな試練からは、救い出されました。
神様を呼ぶことが、切実であったことが良かった!
振り返る今ですから、当時よりも、事態が見通せます。
自分のこともよく解ります。
あの試練のときに、ひどく苦しんだのは、自分の心の方に問題があった面が大きい。
今、自分ははっきり解ります。
「実を結ぶものはすべて、もっと豊かに実を結ぶように父がきれいに刈り込まれる」(ヨハネ15:2)ということであったと、今は解ります。
人生に試練が来ることの理由や意味は解り尽くせません。
けれども今振り返るとき、自分に盲点があって縛られてしまうことから神様が解放してくださったと、解り大きな感謝が湧きます。
あの苦しみは、それが無ければ自分は、神様に近づく道で道草が多すぎました。
たしかに、試練をくぐることで神様をいっそう大切にできるようになったのです。
自分の人生史の試練の面を、おそれずひるまず直視しましょう。
そして、そのドラマに組み込まれていた“神様向きの進歩”について、神様と対話しましょう。
そして、感謝しましょう。