父のふところに飛び込む弟息子
著者は、父のふところに飛び込む弟息子の画面上の姿から、人間の「第二の幼年のあり方」を意識します。
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父の家に帰るための道をたどることができれば、第二の幼年の持つ喜びを見出すことだろう。
すなわち、慰め、憐れみ、そしてこれ以上ないほどはっきりした神を仰ぎ見る喜び。
そして、家にたどり着き、父の抱擁をこの身に感じるとき、私はこう悟るだろう。
私が引き継ぐのは天国だけでなく、この地もまた私が相続する、と。
弟息子は幼子の姿
著者は、一緒にこの絵を見つめた友人の重要な感想を借ります。
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「これは母親の胎から出たばかりの赤ちゃんの頭です。見て、まだ濡れている。それに、顔もまだ胎児のようだわ。」
著者は、そこから次のように展開します。
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小さな子供は、貧しく、柔和で、心の清い者ではないだろうか?
小さな子供は、ちょっとした痛みにさえ泣き出さないだろうか?
小さな子供は、平和の実現に飢え、公義に渇き、迫害にあったとき、もっとも悲惨な犠牲にならないだろうか?
・・・・神の息子は、子供になられた。
とすれば、私たちもふたたび子供になれるはずであり、そうしてこそ、イエスと共に父の王国に再入国できるのだ。
抱擁する父
著者は、父の姿を見つめながら次のように言います。
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この「家長」を見れば見るほど私にはっきりしてくることは、年老いた賢い一家の長というポーズ以外の、まったく違う何かをレンブラントが意図したということだ。
そう思うのも、すべてはその両手に端を発している。
右手と左手が、まったく異なっているのだ。
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父親の手の左右の違いに気づくや、新しい意味合いを持った世界が私の前に開けて来た。
父は、単に偉大な家長というのではない。
彼は父であり、また母でもあるのだ。
彼は男性的な手と女性的な手で息子に触れている。
父は支え、母はやさしく撫でる。父は受け止め、母は慰める。
この父は、その内に男らしさと女らしさ、父親らしさと母親らしさをことごとく具えた神そのものだ。
人も霊的父性を身に付けるはず
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イエスによって、ふたたび私は真の息子となることが出来、真の息子になった者として、ついには天の御父に似た、憐れみ深い者へと成長することができるのだ。
著者は、こうして「天の御父に似た、憐れみ深い者」のあり方のことを「霊的父性を持つ」と表現します。
そして、この「真に憐れみ深い父性」を体得するために、三つの道が必要で、それは、「嘆き」「赦し」「惜しみなく」だと言います。
著者は、述べます。
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神の子供たちの、とんでもないわがまま・・・・好色、貪欲、暴力、怒り、恨み・・・・を思うとき、また私がそれらを神の心の目を通して見るとき、嘆きのあまりこう叫ばずにおれない。
見よ、私の魂よ、人間が人間に対して、できるだけ痛みを与えようと虐待しているさまを。
見よ、自分の仲間を傷つけようと企む人々を。
このように嘆くことは祈ることだ。
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「赦し」は、その壁を踏み越え、何の見返りも期待することなく私の心に他の人々を歓迎するための道を開く。
自分は、神に愛されている子であることを思い起こすことだけが、喜んで私を迎えた御父と同じ憐れみで帰ってくることを可能にするのだ。
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真に惜しみないことは、赦すべき人々は、「血縁者」であり、自分の家族に属しているという真理・・・・感情でなく・・・・に基づく行為である。
そして、そのように行動すればするほど、この真理はますます明らかなものとなる。
惜しみない態度は、それを信じる家族を創り出す。
ルカ福音書15;11-32の「放蕩息子」のたとえ話を、絵画によって表現したレンブラント。
そして、その画を入念に鑑賞し、長期間におよぶ冥想を結晶させたヘンリー・ナウエン。
名画による祈りの豊かな可能性が展開されています。