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蛙の祈り(原題:The Prayer of The Flog)

アントニー・デ・メロ/著
裏辻 洋二/訳

出版 :女子パウロ会
初版 :1990年初版
サイズ:四六判

定価 : 1,836円(税込)

本書は、出版社から在庫切れとなっています。

「ひとつの話を心をこめて聞いた後で、それまでの自分とそっくりそのままに同じであるとはありえない」(マハバーラタの著者ヴィヤサの言葉)、との狙いをこめて著者は小さな物語を集めた。
「祈り」「気づくこと」「宗教」「恵み」「聖者」「自己」「愛」「真実」の8章からなるこの本をひとつひとつの話を味わいながら読み進むように勧めている。
私たちは時に笑い、時に頭を抱え、時に不思議の国に迷い込むだろう。
私たちがいかに先入観や思い込みによって世界や神を見ているか、そのために真実や愛から遠いところに身を置いていること、そしてそのことさえこの本を読むまで気がつかなかったことに気づかされるであろう。
私たちが著者の指示通り丁寧にひとつひとつの話と向き合うなら偽善的な自己を発見すると同時に、照らしを通して癒やされ喜びをもって真に生きる道へと招かれるであろう。

「祈り」「気づくということ」「宗教」「恵み」「聖者」「自己」「愛」「真実」の8章に221のお話が収められた本書は、「読者が自らをいっそう知るという目的」をもつ。
その冒頭で著者は言う。
「人は『真実のなかにのみ自由と喜ばしさを見出します』。とはいえ…いざ『真実』に触れようとする際の最初の反応は、敵意と恐れの二つなのです」。
そこで、「敵意と恐れ」を乗り越えて真実が心に触れられるよう「お話し」という表現形式がとられる。
ひとつずつ、ゆっくり思いめぐらし味わうなら読者は「指導者を必要としない『照明のコース』を聴講」することになる。
その際「一意専心あなた自身をいっそう分かることを志して」読むこと、また「本書に収められてあるとおりの順序で」読むことが求められる。

「祈り」の章に集められた27の話で読者は祈りについてのさまざまな偏見・先入観・思い込みから目覚めさせられ、そもそも祈りとは何か探求するよう導かれる。
祈りは型にはまったものではないし、ルーチンワークでもない。
全知で憐れみぶかい方は、願い求める前からすべてをご存じだし、すでにすべて赦してくださっている。
そもそも必要なすべては与えられている。
ではなぜ、何を祈るのか。
日々の生活のなかで、いかに絶え間なく祈ることができるか。
真の祈りにおいて人は時空を超え、真に生きることを知り、覚醒する、その道が照らされる。

「気づくということ」に収められた24の話で、読者は思い込みや先入見の根深さに気づかされ、当たり前のことなど一つもないと悟り、いつも新鮮に学びつづけ、真理・現実を知ること、さらに神を発見することへと招かれる。
真理と現実には、それを在らしめた方の尊厳が映されている。
すべての人とものに神を観、愛すべき貴さを見出すことができるように、心と精神の内なる光、心と精神の内なる霊的眼力を開発するよう導かれる。

「宗教」の章には49の話が収められている。
真の宗教とは何か、信じるとはどういうことか、誰が、なぜ、救世主なのか、神に選ばれるとはどういうことか、掟とは何か、なぜそれがあるのか、問われる。
宗教と呼ばれる何かによって人が救われないなら、あるいは思いやり、いたわり、赦し、あるいは自己と世界の真実に、その真の意味と価値に目覚め、根源的に回心し、あらゆる思い込み・信念・独断から解放され、喜びのうちに生き、ただ愛するようにならないならそれは宗教ではない。

「恵み」の17の話からは、み摂理を信じて委ねること、すべては恵みであること、とくに協力の恵みについて、み心を知り、仕えること、小さなことに忠実であることについて、また賜をいただくこと、すべてを手放すことについて等々、照らしを受けるだろう。

「聖者」には23の話が収められている。著者の考える聖者は笑いのみ国に生きる聖者、融通無碍で自由闊達で臨機応変、いっしょにいて楽しい聖者である。
かれは神のうちにあって、神の心、神のまなざしをもって万有をみる。
万物に神を観るのではない。
神の目で万物を観るのだ。
その心はみ心と同じくらい広い。
かれの左手は右の手のすることを知らない。自分の名を求めない。
むしろ自分を忘れていて、愛に根差した意向、サービス精神でいっぱいだ。

「自己」に収められた18の話は「聖者」のつづきで、聖者としての自己発見の物語である。
人はしばしば自分を騙そうとし、自分から逃げようとするが、それは成功しない。
自己を知るとは自分を忘れ、すべてに気づき、しかもそのどれにもとらわれない澄んだ心をいただくことだ。
照らされて真の自己を知るなら、自分とは器であって、その中身は神であることを悟るだろう。

「愛」の章の33の物語は、愛の多面性に光を当て、真の愛とは何かを問う。
自分よりも、自分の命よりも愛しているか、無私で無差別・無制約であるか、見返りや感謝を求めていないか、縛りも強制も重荷を感じさせることもない、まったく自由なものであるか、そして孤独を伴っているか。

「真実」に関する29の話は、真実を生きること、真に神に仕え、み心を行うことについて、問いかけ、照らす。
真実は量に支配されない。真実を知るとは言葉の使い方や、何か理論を知ることではない。
正しく推論すれば真実に至れるというものでもない。
事実判断における真実と道徳的判断における真実は時に異なるし、宗教的な真実、愛の真実を生きたいなら、自分のなかにある真実に対する自分の反発心に気づきつつ、真実がしばしば人を遠ざけることも覚悟して、人間の理知を超えた神に心と精神を明け渡し、素直に単純についていく必要がある。