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東洋の瞑想とキリスト者の祈り(原題:A Way of God)

アントニー・デ・メロ/著
裏辻 洋二/訳

出版社:女子パウロ会
初版 :1980年1月
サイズ:四六判

定価 : 1,620円(税込)

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実践的なエクササイズと祈りを中心にして、読者を念祷の世界に案内する手引き書。
「知覚を意識する」「幻想を用いて祈る」「心で祈る」とい3部仕立てで、様々なエクササイズと祈り方を手引きする。
全部で46のエクササイズと祈り方は、それぞれに実践を助ける指示を付して読者をサダナ的瞑想の世界に導いている。

46のエクササイズ(祈り)が収められた念祷の手引書で、知覚を意識するエクササイズ(1~14)、幻想を用いるエクササイズ(15~32)、心で祈るエクササイズ(33~46)に分かれている。

体の各部を知覚したり、呼吸を意識したり、耳に入るすべての音に気づくなどして知覚を意識するのは、一つには観想の祈りに入るためで、ここで観想とは「言葉・イメージ・概念を最小限度しか用いない、あるいはまったく用いないで行う神との交流」(p.41)を指す。

著者によれば、人間には自然的な知性や心に加えて「神秘的知性と神秘的心」が与えられているが、この「神秘的能力」ないし「直観能力」は通常未開発のままである。

これを開発して神と深く交流したければ精神と心を沈黙させることと現在を把握してそこにとどまることを学ばねばならない(pp.17,22)。

感覚を意識するのはそれが沈黙に至るに有益なうえ、現在にとどまる最良の策だからで、感覚を意識することを通じてことばもイメージも抜きで「形のない現実」「ただの空白」としての神を観ることを覚えていく(pp.41-43)。

しかし知覚を意識するのは、それ自体神を意識することでもある。
「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられる」(エフェソ4:6)のであるから、わたしたちの体や感覚の内にも神は働いており、神はおられるからで、知覚を意識するエクササイズによって、体の知覚みならず身近な物をはじめこの世界のあらゆる、物事の経験が、神と親密に交わることでもあることに目覚めさせられ、「神は日常性のただ中に見られるという受肉の秘儀の重大な一側面」(p.70)を日常的に感覚の神秘を通じて悟る生活に招き入れられる。

著者がヴィパサナー的エクササイズをとり入れるのは、無常を悟るためではなく、不偏心をいただき、さらに愛に至るための観想としてである。
幻想を用いる祈りとして、過去の再体験、イエスとの出会いと交わり、自分の死に関する黙想が紹介される。 愛に触れた喜ばしい過去を再体験して霊的力を新たにもち帰る。

つらい過去を繰り返し再体験し、そこで幻想の内にイエスと幾度も出会って体験の意義を悟らせていただき、悟った意味と価値の力でトラウマから解放される。

日常的にイエスと親しく語らいあいつつ交わりを深め、怒りや悲しみを体験したら、その体験をもって十字架のイエスのみ前に立ち、十字架のイエスと体験した出来事とを交互に観想して癒していただく。

自分の死を疑似体験してこの生、心と体、すべての出会いのかけがえのなさに目覚め、すべてをいつくしむことを学ぶ。

心で祈るエクササイズとしては、ベネディクトの祈り、さまざまなバリエーションで行うイエスのみ名の祈り、ゆっくり心で祈る口祷、幻想のなかでイエスに触れて救いの力を賜りそれを分かち合うとりなしの祈り、神さまと協力する賜物を願い求める嘆願の祈り、などが紹介される。

著者が強調するのは第一に、イエスが自分を無条件に愛している事実を信じて受け入れ、その愛ゆえに、自分が「値高く、貴く」(イザヤ43:4)あることをも受け入れることである。「キリストを喜ばせるただ一つのことをあなたはなし得る。彼の無条件の愛を信じること、これである」。「キリストのためにあなたが行い得る事柄のすべてにはるかにまさって、彼の愛を信じることが、霊的な喜びと霊的な進歩をもたらす」(pp.189-190)からだ。

第二には、つねに御摂理を信じ、何事につけ神に賛美と感謝を捧げることである。

「自分にできることを心静かに果たし、それからあとのことは、外見はたとえそう見えなくても、必ずうまくいくとわきまえているので、神のみ手にすべてを心はれやかに委ねる」(p.223)。

「運が善いとか悪いとか決めるのは、神にお任せして、愛をささげるものにはすべて善としてくださる神に、感謝を捧げることこそ、知恵ある生き方というべきではないだろうか」(p.224)。

こう述べて著者は「ノルヴィワチナのジュリアナが受けた神秘的幻想はまことにわたしたちの追い求めるべき理想である」として彼女の言葉で本書を終えている(p.224)。

その言葉は著者の墓碑に刻まれた言葉でもある。 いっさいは具合よく運ぶでしょう。
そして、すべては申し分なく進むでしょう。
万事うまくいくでしょう。
All shall be well and all shall be well, and all manner of thing shall be well.