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心の泉【瞑想の招き】(原題:Wellsprings/A Book of Spiritual Exercises)

アントニー・デ・メロ/著
古橋 昌尚・川村 信三/訳

出版社:女子パウロ会
初版 :1987年7月
サイズ:四六判

定価 : 2,700円(税込)

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著者が、深く瞑想しようと努めた「瞑想史」の足跡が、表出されている。
読者は、感性鋭敏な著者の神との出会いと交わりの前進に沿い、その表出に導かれて瞑想を積んで行ける。
その瞑想世界は、「現実」-「復興」-「キリスト」-「いのち」-「愛」-「沈黙」という順序で紹介され、全部で81のエクササイズで構成されている。
神との出会いには、人間の常識的な想いを超えさせる力があるが、この本はそういう常識レベルを超えさせる深みと豊かさをたたえている。

本書には81の祈り(霊的エクササイズ)が紹介されているが、タイトルに「泉」とあるように、存在の、命の、意味と価値の、さまざまな源泉に気づき、さらに究極の源泉と出会って新たにされる霊的巡礼のようである。
「現実」「復興」「キリスト」「いのち」「愛」「沈黙」の6章からなるが、「現実」から「愛」までの5章の黙想は「沈黙」における観想の準備でもあって、著者によれば「愛の最高の行いは・・・観想の業」(『ひとりきりのとき人は愛することができる』24)なのである。6章の後に「苗木」と題された短い言葉のコレクションがあって、エクササイズに関連した気づきのヒントになっている。

「現実」のなかのエクササイズでは、自分史や今日一日を振りかえるなどしつつ、生きる力となるさまざまな源泉(出会い、記憶、思い出、経験、言葉、考えetc.)を見出して、それらに力づけられながら困難や恐怖に打ち克ってこの現実を生きることを学び、さらに生活というもう一つの「聖書」のみ言葉を読み解くことを学び、生活のなかで「受肉の神秘」に目覚めるよう導かれる。

「復興」のエクササイズでは、自分の罪を知り、罪人の自分に対する主の愛を知り、回心へと導かれ、さらに「わたしの存在の中心、世界の中心」(21)、「わたしの源泉」(22)、「深い内なる源泉」・「万物の源泉」(23)である神と出会う。
そのうえで、み摂理に信頼して委ねること、イエスのまなざしで世界万有を観ることを学び、イエスの光に照らして人生の、またこの一日の意味を悟り、さらに黙想を通じてイエスと交流し、感化・教化されてイエスの謙遜・柔和・寛容そして不偏心をいただく。

「キリスト」のエクササイズでは信仰を見直すべく、イエスと自分との関係についてさまざまな角度から黙想する。
ここで「信仰とは、神が示してくださる真理に、心から賛同すること」(32)である。
自分にとって何が福音か、なぜイエスは「いのち」であるか、イエスとはだれか、イエスにとって自分とは何者かなどについて黙想し、イエスと対話し、気づきをいただいて自分の召命や使命を知る。
さらに人びとのうちに神の現存・力・働きを見出し、人びとのための「取りつぎの祈り」へと招かれる。

「いのち」のエクササイズでは、霊的に生き生きとして自分の命を愛し、全うしていくための黙想が行われる。
まず「人間として生き生きと生きてゆくためには・・・自分の過去と未来を手放してゆくことが求められる」(37)。
そのうえで学ぶべきことはまだある。「人生は冒険家のためのものだ」から「危険に身をさらす、死に対してもわが身をさらしてゆくことが人生である」(38)こと。「人生にもたらされるものは何でも受け入れてゆこうとしなければならない。楽しみや苦しみ、悲しみや喜びなど何でも受け入れていかなければならない」こと。
「人生に変化はつきもので、変わらないものはすでに死んだものである」こと(38)。
「わたしはうまくいっているときだけでなく、調子の悪いときにも同じように、人生を愛してゆきたい」(39)とは著者の信仰生活を一貫した願いで、善し悪しや有意味・無意味を超えて「人生のすべてに意味があるのだ」(39)と信じてみ摂理に委ねるのは著者の基本的態度と思われる。
いのちの意味と価値を洞察するために、遠近法ないし巨視と微視の複眼的視点から、世界と自分のいのちの光景が黙想される。
すべては過ぎ去ってゆき、何が来たるかわからない、そのすべてに「ありがとう・さようなら」「ようこそ」と言う。
そして「わたしがこの人生の一時間を生きるにも値しないものであることを、神はご存知だ」(40)から、いのちの神秘に驚き、創造のダンスを楽しみ、いのちのシンフォニーを聴く。
そのすべてに賛美と感謝を捧げる心をいただく。

「愛」のエクササイズでは、イエスのまなざしですべてを観想し、すべてにイエスのみ名を塗油し、祝福を祈り、イエスと賛美の晩餐を共にする。
主とともにいる喜びが何ごとにもかえがたい。
「愛するとは神の業であり、神は愛である」(54)からだ。
そして孤独になって、自分・人びと・神と「再会」する。「孤独とは『ともにいること』でもある。
孤独においてこそ、わたしは自分自身とともに・・・あらゆる被造物とともに、そして、【存在者】とともにいる」(64)。
愛するとは、ともにいることでもある。

最後に「沈黙」のエクササイズがくるが、それらの多くは『東洋の瞑想とキリスト者の祈り』でも紹介される感覚を意識するエクササイズであり、あるいは「み名の祈り」のバリエーションだ。
さまざまな黙想を経て、孤独と沈黙のうちに観想の祈りに達するなら、本書の目的は達せられたことになる。