冥想のために、味覚の領域に入ることは、正道を踏み外し易い困難もあります。
味覚に対しての人の愛着はとても強く、冥想するよりもその楽しみに心を奪われがちだからです。
けれども、「行」を積み重ねるプロセスにおいて、この感覚領域を除外することは避けるべきです。
味覚の感覚をはじめは、自然そのままの飲食物についての感覚から感じ取りましょう。
水に、味があります。
都会での水はあいにく、薬品の味も交じります。
銘水と称される水ならば、さすがにほのかな甘みとか、ミネラルふうの奥行きある味を楽しめます。
人間が調理や加工をせずに舌に載せるのは、果実や野菜です。
人は、なんと多くの果実と野菜の味を味わえることでしょう。
伝統的な、みかん、りんご、桃、梨、柿....。
最近は、その一種一種において品種改良されたところから、同種の中にもさまざまな差異を味わえます。
甘さ、酸度、しぶみ、硬さ柔らかさ、みずみずしさ、水分の多寡。
舌に載る食材の味覚的感覚に深く踏み込みましょう。
伝統的な野菜を口に入れて味わうことも、人を感覚世界の広さと深さへと誘います。
きゅうり、なす、大根、ねぎ、トマト、にんじん、しょうが、しそ、みつば、さつまいも、じゃがいも。
それぞれなんと、個性的なことでしょう。
しかも果実の場合と同様、おのおのの種類の中でもまた、微妙な差異がさまざまな広がりを見せます。
海からの幸を日本では自然のまま舌に載せることが、幅広く継承されています。
何ら人工的な調理の手を加えずに、味わう道がいろいろ存在します。
魚、貝、藻類。
さらに食材が調理されると味覚の感覚世界は、いっそう広がります。
いわゆる調味料が加えられて、素材自体の味に組み合わされて、いっそう味覚の世界を広げます。
この調理されて導き出される味覚は、それを数え上げようとすれば作業は、果てることが無いでしょう。
舌が感じる感覚も「わかりきっている」というのは、錯覚です。
そこに広がる感覚を、どこまでもどこまでも、追いかけて感じ取ってみましょう。
その広がりと深みに入ることによって、人が生きる世界の広がりと深みにあらためて驚嘆しますし、畏敬の念さえ湧きます。