ふだんの私たちの生活には、関わるべき物事や出来事が次々と現れます。
これらの物事・出来事は、一見雑多に生まれ出て自分に届いてくるように見えますが、実は無駄なものはないと言えます。
もちろん、私たちは、選びをする自由がありますから相応しい選びを実践し、一人の人間としてまとまりのある関わり方をすることは当然です。
そのようにしながらも、やはりいろいろな局面において、煩雑さや厄介さが伴います。
こういう中において、たとえ煩雑であったり厄介であったりしても、一つ一つに丁寧に関わるように努めることは大切です。
大きな意味深いことに限らず、些細なことでも、また一見無意味なように思えることでも、清く整えるように努めることは、暮らしの中の観想のために大切です。
自分の取り組み方を混じり気の無い清らかな心から始めます。
そのように始め、途中も、結末も、“清らかな心による清らかな”達成となるよう努めます。
それと同時に、きっちりしっかり整うようにもします。
物事や出来事が、“おさまりよくきちんとした”展開になるように整えようとします。
そのように努力することは、単なる自己満足とは、ややおもむきが異なります。
このように努めるならば、自分の心が奥底から気持ちよいものになるのですが、それで目標達成だということではありません。
どのような物事・出来事に関わる場合にも、それらを“清く整えよう”と努めることは、神様との出会い・交わりのための橋掛けになります。
神様は、清い方であり、また全き調和の整いを保たれる方です。
神様を探す心で生活し神様とつながりたい者に、一つの大切な道が開けるゆえに、そのように努めるのです。
人が、ふだんの局面において清い整いをすべての物事・出来事にもたらそうと努めることは、神様と響き合い触れ合う道を開いてくれます。
自分が、神様と親密に呼吸し合い、息を通わせ合うことで深い感銘を得ることがしばしば生まれてきます。