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とりかかる初めは「やり尽くして待つ」の心で

神様との出会いと交わりを恵まれるのは、座して(ひざまずいて)祈っている時だけに限られるのではありません。
暮らしの中で、活動が行われている間でもそれは恵まれることです。
そして、それは、座して(ひざまずいて)する祈りに進歩した人ほど多く恵まれます。

仕事に従事している時、次の行動の準備をしている時、ときどき、胸の奥深く、意識の奥深くが高揚することがあります。
人間の操作可能なレベルを超えたところからの、尊い感じ、幸せな感じが生まれることがあります。
それは、神様が訪れてくださっている時だ、ということができます。
そういう状態が生まれることを、「暮らしの中の観想」と表現します。

さて、実生活での“働き”ということは、いい加減な仕方でうまく行くものではありません。
ですから“働き”に着いている時、意識のほとんど全部が、“働き方”を確かなものにすることに集中しています。
意識的に神様を思うというゆとりはありません。
しかし胸の奥深く意識の奥深くが、一切の気がかりも消え、単一で恒久的な思いで満たされるような時も恵まれます。
無限の広がりと明るさが、心の奥深くや意識の奥深くに生まれ出るとも言えます。

いつもいつもそうなることが恵まれるというわけではありません。

自分というものに安住してゆとりを楽しむというよりも、自分という殻を抜け出して、自分の貧しさの中に入って行く“神様探し”“神様訪ね”の道を辿るのだと言ってもよいでしょう。

時々、そういうあり方が恵まれるのです。
ただ“人の世の、現世に役立つことに取り組んでいる”などという水準をはるかに超えた尊い“あり方”が展開しているという喜び・幸せを感じます。

上のことは、単純作業・単純労働のとき、恵まれることがあります。
また、逃げることのできない試練の中をくぐっているときに、恵まれることもあります。
さらには、隣人・友人のどなたかの為、精一杯の手助けに打ち込んでいるときに恵まれることもあります。
そういう高揚や感銘深さに包まれていることは、「暮らしの中の観想」が成立していることです。

神様の介入をいただいている恵みの時です。
ですから、「ああ今神様が私と共に居てくださっている」と明らかに思える場合もあります。

敬虔さの中で、純粋に神様と人々とを愛そうとして、“働きを絶やさない”道を辿るとき、胸の奥深くや意識の奥深くにしばしば、大きな慰め・言い尽くしがたい感銘深さ・涙ぐましいありがたさ、そういうものに包まれて働く自分を見出すことが恵まれます。

ただ、そういう時がいつもいつも与えられるわけには行きません。
ですから、“やり尽くして”待つのです。
それが恵まれる時は、必ず来るのですから期待を抱き続けて待ちましょう。

上述の高揚や感銘深さに包まれているならば、働きや行動を続ける続け方も最も気高い、最も尊いやり方となります。
真心を込めよう、誠心誠意丁寧に行おう、関係のある方々の最も大きな喜びになるように仕上げよう、とするようになります。

良い意図を用意し、良い心構えになって、働いたり行動したりしていましょう。
神様の訪れがいつか与えられるのです。

“やり尽くして”「暮らしの中の観想」が成立する時を、待ちましょう。