祈りが積み重ねられて神様からの恵みが蓄えられてくると、自分についても外のものについても、いのちの肯定感が人の中に広がります。
自然とポジティブな見方・考え方へと導かれるようになります。
神様は、創造のみわざをお進めになりながら、お働きのわざの結果をご覧になって「それらは皆良かった」と、判断なさいます。
神様の目からは、良いものがあふれるほど多いです。
否定的な、いわゆる「よくないもの」「悪いもの」も存在します。
新聞やテレビニュースが報道する事件や戦争や社会的な矛盾などに、頭が痛み心が暗くなりがちです。
自分の身近かでも、憤慨や悲嘆に招かれることは消えません。
(自分自身の中にも辛くなる要素はあります)
だからといって、それを見ることで、「良いもの」を見失ったり過小に感じたりすることは、あまりにも残念です。
中南米で、霊性の指導的な役割の一端を力強く担っておられるカルロス・カバルス師は、このあたりの問題点について、「蜜蜂とハエ」のたとえで説明しています。
「等しく地上でいのちを営む昆虫同士。
ところが、蜜蜂が美しい花ばかりを相手にして生き、また働きの実りとして美味なハチミツを生みだすのに対して、ハエは汚いゴミばかりを追いかけ、ウジを産みつけて生き続ける。
同じ昆虫仲間でも、これほどの方向と生き方の違いが生じる。
人間も、似ているところがある。
そして、心がけ次第で、ミツバチのように生き抜く道を選べるはずだから、そのように生きなければあまりにも惜しい」
と、説きます。
私たちの現実として、人や物事の展開次第で「ひどく悲観的」とか「他罰的」とかの心持ちに煽り立てられることは発生します。
(否定的な言動をとる他者に直接、対応しなければならない場合もあります)
しかしこの時、それに巻き込まれ過ぎるならば、美しさや善さの多い現実の受け止め方にバランスを欠くこととなります。
そうならないよう、「平静に」、「沈着に」と、下腹に力を集めてふんばり、自分を方向付けます。
否定的な思いに濃く色塗られてしまわないよう、心の奮闘によって切り抜けます。
(中略)否定的な方向へ煽り立て、駆り立てるものは、私たちが生きる舞台の善さ・美しさの溢れに対して、ある一部分でしかないと見るべきです。
そういう煽り立て、駆り立てるものとの闘いの後に、再び肯定的な多くの存在や営みに共感することに戻ります。
自分も「いい感じ」。
ほかの方々も、いろいろな善さ・美しさを溢れ出させておられる。
神様によって生み出され、神様によって持続させられている被造界の善いものごと・美しいものごとの溢れについて、喜びのうちに共感します。
こうして否定的な思いや発言は、稀なこととなってゆけます。