私たちは、暮らしにおいて、自分の目標・自分の方法によって歩んでいるわけですが、ここに周りから届く物事によって私自身が大いに影響を受けます。
周りからは、喜べる物事も届けば、厄介ごとで断りたい(逃げたい)物事も届きます。
周りから物事が届くおりに、実は神様との響き合いをみるうえで、とても大切なことが秘められています。
周りから届く物事に対する私たちの態度を振り返ってみましょう。
喜べる物事も数多く届きます。
「誕生日のお祝い」「手紙や電子メールに温かい返事」庭で花を育てたり果実を育てたりしている人には「開花や結実」就労者には「月々のサラリー」年金受給者には「年金送金の知らせ」。
その他、「太陽の光」「小鳥の来訪」「行楽に出る日に好天の恵み」などなどと、いう具合です。
人生においては、以上のようなありがたいものが実に豊かに届きます。
これらを受けるにあたっては、そのすべてが、それらを生み出し、支える源におられる神様のご好意によっていますから心から神様に感謝して受け取りたいものです。
さて、私たちが案外うまく受け取れないのは、隣人からのちょっとした好意です。
と、いうようになりがちです。
じつは、こういう好意は、受け取るのがいいのです。
そう申し出てくださった方には、事態を乗り越えるためのより良い仕方が見えていることが多いです。
ちょっと立場を変えて考えてみましょう。
受け取り側ではなく、お届け側にある時、次のような体験があるではありませんか?
たとえば、ある方(Aさんとします)がちょっと困っていてその近くに私が居る。
具体的に、、私はAさんと2人で道を並んで歩いている。
すごい埃が舞い上がって目に入る。
私はかろうじて難を逃れ埃が入らなかったが、Aさんの目にはしこたま入ってしまった。
慌ててハンケチを探しておられるがなかなか見つからない。
私が自分のハンケチをお貸ししようとすると、「いえ、大丈夫です。なんとかなります」と探し続け、しかも見つからないので手でこすったり、目をパチパチさせてしのごうとされる。
きれいな布を目に静かに押し当てて、涙成分と共に埃を付着させ取り除けばずっとすっきりする。
しかし、Aさんは他者が自分の内側に入り込むことをお避けになり、ハンケチの借用も断られる。
Aさん自身に身体的な不快さが拭いきれないし、私も残念な思いが心一杯に広がる。
好意を、広い心で受け取ってほしかった。
やはり、好意は謙虚に受け取るのがよいのです。
ところで、いま心を神様に向けてみます。
私の位置に神様が、そしてAさんの位置に私がくるということは、しばしばあることではないでしょうか。
そういう私は、果たして神様に向かって
「いえ大丈夫です。自分でなんとかできます」
と、申し上げはしないでしょうか。
謙虚になれない自分が、神様の恩恵で豊かな人へと前進する機会を失っている場合が多いことでしょう。
また、暮らしの実際面でも、暮らし方にまずさが残るままになる残念さがあります。
ところで、他者からの好意を賢く謙虚に受けることが重なる人は、心で人生全般の感じ取りを感謝の多い感じ取りへと進めて行けます。
人々からの好意が先ず、嬉しい・ありがたい。
そして、種々の好意が届く背後に、神様の素晴らしいご配慮を感じられます。
人々からの好意を賢く受け取ることに慣れた人は、神様からのご好意を受け取ることにも長けているのです。
さて人生では、上記の部類とは逆の部類が、ひっきりなしです。
第一印象として、厄介だ、面倒だ、不愉快だ、嫌いだ、という物事も数多く届くわけです。
これらについて、即座に逃げてしまわないようにしましょう。
それぞれ一つ一つを、まずは、吟味しましょう。
あまりにも重く理不尽なことであれば、避ける道を捜しましょう。
けれども、キリスト者の愛の原則に立って、「出来るなら、受け取るのがいい」という物事であれば、受け取れるかどうか思い巡らしましょう。
そして、がんばれば受け取れるという判断に至れば、寛大な心で受け取って、その荷物を担う愛を実践し続けましょう。
「買い物に行って来て欲しい」「駅まで自動車で連れて行って欲しい」「この郵便物を投函しておいて欲しい」。
こういう頼みなどが届くなら、隣人愛の実践として極力引き受けましょう。
お付き合いが、やりにくい人との関わりもあります。
よほど困難な場合は、回避する対策も必要です。
しかし、少々の忍耐で続けられるなら、この場合も寛大な心で「受け取り」ます。
忍耐しながら互いの違いを乗り越えようとすることで実は、人間というものの幅広さ、豊かさに招かれることとなります。その人が自分と違うだけに、自分では持てないままだった別の“世界”を持っているのに出会い、自分もそれを味わうことが恵まれます。違いのある人を受け入れたからこそ、自分は豊かにされます。
神様から物事が私に届くのは、それは、教育者の「父」が届けられる面があることを感じていましょう。
神様は、私たちに見るからに楽しみとなる物事に取り組むように招かれることも逆に、不快・辛い・難しい感じの物事に取り組むように招かれることもなさいます。
楽しみとなる物事だけに招かれるのでは、人は深みや幅が身に付きません。
嫌な物事をもお届けになってそれを受け取り、それに相応しい取り組みをすることで人が成長することもお求めになります。
そのようにして人を育ててくださる、愛情こもる父親のようななさり方なのです。
周りから届く物事を教育者的な「父なる」神様から届いていると思う習慣を身に付けましょう。
そして、良い物事は心から感謝して受け取りましょう。
また、嫌な難しそうな物事は、それによって私が深みや大きさを増し加えるように育てようとしてくださっていると考えて受け取りましょう。
後者の場合には、神様はご自分が私にいっそう近い位置に来てくださって、私と共に居てくださいます。