まだ、キリスト教的信仰心で礼拝・祈祷することの手前に留まりましょう。
体の構え(感じ取り)と、呼吸を軸にしてさらに奥へと進みましょう。
「吐き切る」ことを重んじながら滑らかな深い呼吸が続けられると、体にとても尊い感じが現われ出ます。
胸の奥や胃の底あたりまで、快い爽やかさが届きます。
また、鼻腔の奥も似ている爽やかさを得ます。
この鼻腔あたりの爽やかさは、頭蓋の内側で額にまで達し、なんとなしに自分の霊が天への通気口を恵まれたように思われてきます。
「鼻腔から額へさらに天へ」という通り道が上に向かう通り道だとすれば、下方に向かう尊さもまた同時に得られます。
すでに、心や意識が体および呼吸と一体化してきていますから、さらにこれを丁寧に続けると胸から両腕へ、さらに胴から両脚へと、「調和」「軽快さ」「霊の巡行のような尊さ」が行き渡ります。
意識の覚醒も達成されてきます。
その覚醒は、「今」「現在」というところのみを感じ取る意識となります。
自分と密接な関わりの人々や物事にさえも距離が得られ、「ほんとうの自己」が現われ出ます。
自分は、今・ここで、「ありのままの自己」「おのずからの自己」を再興できていると、そう感じます。
ここには、しん底「安らぐ自分」・「自らを強要しない自分」が居ます。
実人生は、険しいところも多いです。
そういう険しさに立ち向かうことも必要なのですから、「安らぐ自分」・「自らを強要しない自分」もまた、覚悟が必要です。
その覚悟は、「緊張」とは異質です。
意識のほんとうの覚醒から覚悟を持つ場合、そこに浮かび出るのは「毅然さ」です。
腰のところの引き締め(腰骨を立て続ける)のがんばりは、「安らぎ」の中の「毅然さ」を産出できます。
「安らぎ」ながら、時に応じて「毅然」と、課題に対応する心です。
体の確固とした構えと感じ取りおよび傑出した呼吸において人は、高度に整ってまとまりを得た“体と共に生きる自己”となります。
そして、「安らぎ」と「毅然」とを兼ね具えて人生に取り組む人となります。