昼食を終えて改めて体勢を整え、体の感覚を呼び覚ましてから「『泉』の瞑想」が始まった。
目を閉じて神父様の語る言葉をイメージしていく。
山の裾の、深い森の中の、湧き水があふれる泉。
その言葉から、具体的な風景がすぐに浮かんできた。
山裾の深い森といえばやはり富士山麓だ。
脳裏にはグーグルマップの上空からの映像がすーっと地上に近づいていくように青木ヶ原の樹海が浮かんだが、人を拒むような木々に阻まれて、どうも私が求めているのはここではないと、意識は再び宙に舞い上がった。
すると山中湖に程近い湧水の名所、忍野八海が見えてきたが、観光客が大勢いて、どうもそこも違う。
次は富士山の南側、三島の柿田川や源兵衛川の情景が思い出された。
初夏の陽光にキラキラ輝くきれいな水の中で、ゆらゆら揺れる若緑の水草が白い小さな花をいっぱい咲かせ、酸素の粟粒をプチプチとくっつけている。
ミシマバイカモ(三島梅花藻)だ。
清水が湧き出ているところは、砂をわずかに巻き上げてモコモコしている。
濁らず澄んでいるからよく見える。
しばらく見ていると、こちらの心も澄んでくるようで気持ちが良くて、ずっとそこにいたい気がした。
けれども、これは今まで見たことのある景色を思い出しているだけで瞑想ではないのではないか、現実の風景にとらわれすぎているのではないか、という思いがよぎった。
そうしているうちに「体の中の水分、血液やリンパなどの液体の流れも感じて」とおっしゃる神父様の声が聞こえたので、自分の体に意識を持っていこうと努めた。
心臓から四肢への血流をかすかに感じたような気がしたが、そのまま「泉」という言葉から自分の過去の記憶が次から次へとよみがえってきて、意識がそちらへ向かってしまった。
「泉」といえば重い病に苦しんでいた時、何度となく励まし支えてくれた学生時代からの親友の名前だよな、中学時代の級友の「和泉」さんはどうしているだろうか、仲良しの「小泉さん」もいたなあ、タイへのスタディツアーのメンバーだった今は亡き「和泉さん」は、ボランティアで人に尽くす姿を示してくれた豪放磊落な人だった、それからそうだ私は思いがけず「清い泉」という名の大学に入り、当時その修道会の歩みを綴った『泉は涸れず』という本を読んで感銘を受けたなあ、などと不思議なことに20年も30年もすっかり忘れていたことが、どんどんどんどん思い出され自分の中から湧き出てきた。
一方、ああこれではダメだ雑念だらけだ、とも思ったが、次第にそうした思い出がすべて関連していて意味があって今の私があるのだという気になり、胸のうちが温かく穏やかになってきた。
瞼の裏には相変わらずモクモクと砂を巻き上げつつ湧き出す泉が映し出されていたが、それはなぜか清らかな水でありながら冷たいわけではなく、温かい柔らかい水のイメージになって徐々に自分のうちから湧き上がるもの=心の泉と、最初にイメージしていた現実の光景とが一体となっていくような気がした。
そして、自分の内に湧き上がる思いとは、絶えず私を潤わせて下さる神様の愛なのかもしれないと、感じられた。
見たことのある光景にとらわれた上に、過去の記憶が雑念となってうまく瞑想できなかったのかと思っていたら神父様から
「それで良い」
と、言っていただけた。
豊かに溢れる神様の愛を再認識し、今日のサダナに参加できたこともまた、お導きだったのだと深く感謝し、会の終了後、立ち寄った聖堂に長くとどまり心地よさの余韻に浸って家路に着いた。
(静岡 40代 男性)