妻に勧められて参加しました。
私は、無宗教とは言えないにしても特定の宗教は信じてはいません。
しかし、生活の中で祈ることがないのではありません。
告別式では故人の冥福を祈り、年に2,3回お墓詣りをして手を合わせます。
旧盆も大切にしています。
梅雨の晴れ間に太陽が顔を出した時にはありがたさを感じます。
台風が過ぎ去った後は無事であったことに感謝します。
私にとって、神とは”存在しないこともできた宇宙が存在すること”を敢えて言及する場合の根拠(視点)であり、自分の”有限さを自覚する時に憧れる無限なるも”のです。
また、”神は人類の歴史に直接は関与しない”と、思っています。
このような私がサダナに参加していいのか。
参加することの目的・目標は何なのかと参加する当日の朝まで迷い妻と話をしました。
退職後1年目は体のメンテナンスを行いました。
2年目の今年はおろそかにしていた心について考えるきっかけにしようと思い最終的に参加を決断しました。
サダナの「体(呼吸)と祈り」は何とかなるにしても、「瞑想と祈り」や「福音(聖書)と祈り」は未信者としてかなり違和感があるのだが、他の参加者の妨げにならないように静かに他の人の話に耳を傾けるだけでも意味はあるのではないかと思うようにしました。
ところが、サダナで姿勢をシャキッとさせ、静かに注意深く呼吸をしていると空気とともに何か良いものが体の中に入って来て、体の中を清浄にして行くのを感じました。
なるほど、これが祈り(呼吸)の良さなのかと思いました。
頭の中を空っぽにして、空気だけを感じて呼吸(祈り)をすることだけでも心に良いものをもたらすのだから、良いイメージ、良い言葉とともに呼吸(祈り)を行うと更に良いのだろうと考えました。
良いイメージとして聖母マリア、妻を選んで行った呼吸(祈り)では、具体的な言葉は出てきませんでしたが、手提げの籠のイメージが浮かびました。
籠の中身は分かりませんが私の望むもの私に良いものであると感じました。
たまに、心と身体の調子がいい時に暖かいものに包まれたようなほっとした感じを覚えることがありますが、それを自分の行為で誘発するのが祈り(呼吸)なのかと思いました。
さすがに、キリスト教的な言葉を添えての呼吸(祈り)は、クリスチャンではない私には無理で良いことも起きないだろうと思っていました。
最初は言葉の内容にとらわれて身体が抵抗しているようでした。
そのまま続けているとだんだんと言葉が背景へと薄くなっていき、空気(良いもの)だけが身体を満たしていくような感じになりました。
我々は呼吸をして生きています。
良い呼吸は良い生き方に繋がります。
凡人にとって良い呼吸が自然に身に付くことは難しいと思います。
祈りとして、姿勢と態勢を正しての呼吸は分かりやすく誰にでもできそうだと思いました。
そして、良い呼吸(祈り)をするために良いイメージ、良い言葉があるとさらに行いやすいことが実感できました。
森の中の切り株、小屋、小川との対話では、言葉を交わすことは出来ませんでしたが、美しく流れ出る映像に心を奪われて現実に戻った後もその幸福感に満たされていました。
美術館で出会ったイエスは少年の姿で無言でしたが一緒に地球中の過去と現在を鳥や飛行機になって旅をすることが出来ました。
また、イエスの現れかたが壮大でSFやアニメのようであり、また一緒に旅をしたいと強く思いました。
未信者としての参加でしたが、今まで私が知らず知らずに行ってきた祈りのようなものとキリスト者の祈りは地下の根元(地平)は開いていて、互いに共有しているものがあると感じました。
(沖縄 60代 男性)