年が明けて、1月5日から9日まで、東京東村山の三位一体修道院でダイアリー・サダナが開催されました。
私は今までに、サダナ1、サダナ2を何回か経てきたので、ひとつの締めくくりとしてこのセッションに参加することを決めました。
サダナの祈りをとおして神さまと自分の内面性とに親しむうちに気づく。
真実だけを求めていること。
真実の美そのものに憧れていること。
ほんとうに価値ある端的に善いことだけを行いたいこと。
だれかに恋したり、愛したりするとき、だれかを突き抜けて、ほんとうはイエスさまに恋していること、神さまをひたむきに愛したいと望んでいること。
ファンタジーを生かした祈りのなかで、神さまは、イメージとシンボルを通じて気付きをお与えになる。
変容していくイメージたちは、神さまの芸術作品としての自分の本来性を知るための母体となり、シンボルたちは宗教心(制約のない愛)の次元で感情に働きかけてほんとうの憧れに呼びかける。
それらが聖霊さまからいただく閃きとあいまって、神さまと自分とが望んでいたわたしは誰なのか、少しずつはっきりしていく。
いつしか「神よ、み旨を行うことはわたしのこころの喜び」という詩編の一節が自分の歌になる。
こころの根底の真ん中にある、いちばんふかい、いちばんほんとうの望みと憧れは、神さまがわたしにおいて望まれていること(天職calling)と同じものだ。
そして天職はこの世的な諸条件に制約されることなく、いつでもどこでもみ恵みによってなされうるものだと思う。
そして惜しげもなく恵まれる神さまは、自分より近くにおられる。
全身で祈るとき、細かく体の諸部分を感じる作業に集中するなかで、神さまの力が全身と感覚におよび、それらを支えていてくださっていることに気づく。
感じているのも感じられているのも神さまの力の現れで、神さまだけが「在る」ことに気づく。
呼吸とともに祈るとき、ひと息ひと息に神さまの慈しみの充満と溢れを見、「私たちは、神のなかに生き、動き、また存在しているのです」という使徒の言葉を経験する。
あるいはまた、イエスさまと親しく率直に語らいあううちに、自分がどんな友情へと招かれているのかを知らされ、イエスさまのまことの弟子、まことの友、まことのしもべであることこそ、自分の真のアイデンティティだと気づく。
こうしてイエスさまの愛のためだけに生きたいと思うとき、自分では何一つできないことを思い知る。
ご聖体と神秘体(教会)にあずかり、聖母と諸聖人の祈りに支えられる必要を知る。
自力では一歩も進めなくても、生活全体がマリアさまのみ心のように清い礼拝になる希望、いつもイエスさまの受肉の神秘を生きる希望、いつかイエスさまマリアさまに似た者になる希望がある。
神さまは恵みを与える前に、それを望ませるそうだから。
アヴェ・マリア。
(東京 40代 男性)