瞑想の中で、私は時々美術館を訪れます。
瞑想と現実が、ひとつになってしまう。
その時折の体験の中に、私自身の心の成長を眺めることも出来れば、という言い方は全く他人事のようでもあるのですが、事実、第三者として私の心を見詰めることが出来るということをそしてそれが素晴らしい結果を私自身に贈ってくれると言うことを体験するのです。
もっとも美術館を訪れる瞑想は、サダナに参加してその方法に接し、自分自身を一つの彫像として彫り上げる過程を見詰めながら希いや望み、悲しみや喜びや愛を表現していきますが、その心の動きを追う中に多くの気付きを戴くのです。
彫像である私自身の前にイエス様ご自身が来館され、前に立たれた時の想い、それを私は久し振りに参加したサダナであらためて体験し、神の想いや願い、そうしてそれを委ねられている喜びを強く味わい、感謝の念を深くしたのでした。
その折、私は幼い子供を高く持ち上げていわゆる「高い高い」をしている彫像になっておりました。
展示室に入ってこられたイエス様は、真っ直ぐに私の方に向かって来られたのです。
声を立てて喜んでいる子供を下ろそうとする私をイエス様は目で制しながらじっと見つめて下さっています。
じっと視線を返しながらも私は恐縮して、身の縮むような想いが先に立っておりました。
ずっと微笑みながら見つめて下さっているイエス様の目には、涙が浮かんでおりました。
しばらくその状態が続いた後、イエス様は、この私に頭を下げて出口に向かわれました。
そしてもう一度振り返られると、優しい微笑みを浮かべて頭を下げ、静かに去って行かれたのでした。
イエス様ご自身も幼い日に、「高い高い」を経験され事もあったのでしょう。
世の親が我が、子に注ぐ愛情の姿をご自身も大切なものとしてお持ちでいらしたでしょう。
世のすべての方々に託されている願い、それはキリストを通してすべての人の上に願い委ねられている想いを深く受け止めた祈りの時でした。
こうしたサダナでのいくつかの体験を通していつか私自身は、不十分ではあるとしても祈ることが出来るように成長しており、神の想いの中に愛のみ手の中に招き入れられていることを味わえるようになっていることを感謝しているのです。
♪呼ばれています、いつも応えていますか、いつも遙かな遠い声だから、よい耳を…♪
という聖歌を常に実感できるのは大きな喜びです。
(神奈川 70代 男性)