人生において、これまで依存してきたライフサイクルが崩れ、新たな道を模索しなければならない必要に迫られるとき、若い頃の真理に対する情熱とは別の、もっと冷めた眼差しで改めて自分自身を見つめなおす機会を与えられることがあります。あるいはまた、好むと好まざるとに関わらず、それまで自分が積み重ねてきたものが、一枚一枚剥ぎ取られていくような状況に追い込まれるとき、築いてきたものが何もかもなくなって廃墟と化してしまうとき、もがいてもあがいてもそれは徒労に思えて、そのときはじめて目が覚める、自分が生かされているというありがたい世界に開かれることがあります。わたしもほんの片鱗ですが、そんな体験をしたことがありました。
その後、生けるブッダ、生けるキリスト(春秋社)という本にめぐり会い、著者のティク・ナット・ハン老師による禅的な行(ぎょう)、呼吸や体感を意識することによって、新たに生き生きと新鮮な福音のイエスに出会えるかもしれない、という予感がしたのでした。
禅の老師さまにキリストさまとのパーソナルな関わりの手ほどきをいただくとは思ってもみないことでしたが老師の行法は、久しく遠のいていた祈りの味わいを再び求めるきっかけとなりました。
それから約1年、数十年ぶりに10日間の霊操に与ることになり、はじめての霊操でいただいた恵みの体験、“あるがままに愛されている”長いこと忘れ去っていたその事実に、これまでの人生の流れとともに、祈りの中で呼び戻される大きな恵みをいただいたのでした。
その一方で、自分を取り巻く周囲の状況がこれまで以上に厳しくなり、心理的にも追い込まれるほどになってしまいました。
「サダナ」に参加しようと思いたったのは、ちょうどその頃のことで、客観的に“自己を知る”ことの必要性を痛感していたこと、そして、ティク・ナット・ハン老師の行法、心身一如の禅の世界にも通じるキリスト教の瞑想を体験してみたいと思ったのでした。
心理的には抱えているものが大きくて重かったのですが、望みを同じくする仲間とともにエクササイズを行えることは、大きな力になりました。
そして、「サダナ1」の最後の瞑想の中で、わたしを解き放って新たなものに変えてくださるイエスに出会ったのでした。
イエスはまさに
「捕らわれ人を解放し…圧迫されている人を自由にする」(ルカ4:18)ために来られた方、そのきよい手が触れてくださると動けなくなった足も歩けるようになり息を吹きかけられると、新しいいのちへと開かれる…。
瞑想の実りは、それを事実として体験していくことでもありました。
約1年前から、わたしにとってはまったく新しい畑の訪問介護の仕事に携わっていますが、生活の場で直接に人と触れ合う仕事ですので、実践的に生きることに繋がりやすいようです。
掃除も調理も何気ない日常のことですが、丁寧に大切に心をこめて行うよう心がけるなら、それは“行(ぎょう)”となり、たしかに、行い以上の功徳が現成するのです。
気配りというものも、心平静であってはじめて相手の気配、必要に気づくことができるので、こちら側の心が雑念や心配事で乱れていたり、散り散りになってお留守になっていると、やっていることにも乱れが生じてしまいます。
アタマがつくり出す想念から心を解放して本来自己に立ち戻り、静かな安らぎの祈りの味わいを生活の場に運ぶことができるならいつでもどこにあっても“今ここに存在”して響きあうことができる、“観想的生き方”とは、このようにあるがままに受けとめていく “まなざし”であるように思います。
サダナの体験は、私にあるがままに受け止める“まなざし”と、新しいいのちに踏み出すことの両者を体得する助けとなりました。
(東京 50代 女性)