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サダナ東洋の瞑想とキリスト者の祈り

暮らしの中の観想

【12】苦しみから逃げないで

 人生には、苦しみの種が絶えません。いろいろな苦しみが私たちを待っています。”働き方で失敗した。””不慮の事故に会った。””ある人からの言葉が胸に突き刺さった。”などなど。
 苦しみの種がつきないわけですが、なぜ「苦しみが私を襲うのか」「人生には何故苦しみがあるのか」と、問うことは、やめにします。
苦しみから逃げたい心は誰にも湧きますが、思うに過去において、逃げて解決が付いたという経験はできませんでした。苦しみは、追いかけてくる、というべきでしょう。少なくとも、次のことが確かです。つまり、「ある苦しみから逃げても、じきに、別の苦しみが顔を出す。」
 仕事の不調さに苦しみ、子育ての難しさに苦しみ、不健康や病気に苦しみ、他人との関係の難しさに苦しみ、自分の欠点に苦しみ、いろいろな足りなさに苦しみ――それらと共に歩むのが人生でしょう。
 苦しみから逃げると、自分の行く手は、いっそう不自由になったり、事態がいっそう難しくなったりします。やみくもに、無鉄砲に苦しむということではないのですが、「この苦しみはどうしても避けられない」と見えてきたら、静かに雄々しくそれを受け止めます。
 人は、その苦しみについて、受け止める理由を明らかつかんでいるとき、相当程度まで苦しみに耐えることができます。
 苦しみを引き受けて時間を経過するうちに、イエス様の苦しみを想うことができるようになる場合もあります。そして、イエス様のお苦しみと自分のそれを重ねることが出来るようになります。そしてさらに、イエス様のあがないのみ業に協力する心にもなり得ます。
 苦しみをそのまま受け止める、そしてあらがうことなく、受け止めの取り組みを続けます。
こうしていると、その体験の中で、貴重な感じ取りが現われて来ます。
――関係ある人々の真実が感じられてきた。
――自分のもっとも深いところでの「願い」「望み」が浮かび出るのを恵まれた。
――「愛」が試練を受けているのが感じられる。
――そこをくぐりながら、「愛」が純化されつつあると感じられる。
「愛」が純化されるということなら、つまりは、自分が純化される嬉しさでもあります。
 苦しみに耐える闘いが続くと、人は自分の限度に追い込まれます。自分の限度に近い立ち位置(状態)で、なお解決を探したり前進したりするとき、その余裕の無いギリギリの状態において虚飾ははがれ、真実の思いが湛えられます。そのような、真実さは自分を神様に近づけます。人の驕りが消えます。等身大の自分になって、神様と対話することが恵まれます。
 そして、しばしば、そういう時にこそ神様が親切にはからってくださることに出会います。
 以上に加えて、苦しみのさ中にあって、あたかも厚い黒雲に切れ目が出来て、そこから光が差し込むことも恵まれます。その光は、しばしばキリストの復活から届くとしか言えない場合も生まれます。キリストの復活に結び付いてゆくのに、これほど確かな道はありません。つまり、頭の中で念じている復活なのではなく、受苦の体験そのものが、その向こうにあるまことの喜びたる復活に、私を運んでくれるのですから。
 苦しみがやって来る理由を考えることは、不毛の営みです。避けられないと判るなら、それを雄々しく引き受け、耐えてそれが消えるのを待ちましょう。この待ち方においては、驕りが消え、自分の純化が進み、そして虚飾が消え、真実な自分となって神様に近づかせていただけます。そうなればこそ、神様の親切さに出会えたり、復活の喜びの光が差すのを恵まれたりするのです。

 

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