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サダナ東洋の瞑想とキリスト者の祈り

私のサダナ記念日~黙想体験から~

【40】ミサの司式者になってみる黙想の体験

 

 三ケ月前の黙想会における一つの黙想の中でした。
 そこには、宣言という、激しい姿勢が示されていました。四十年もの間、私も向き合い続けてきていたミサの個所です。聖変化をもたらす式文の一節です。

 主イエスは渡される夜、パンを取り、あなたに感謝をささげて祝福し、割って弟子に与えて仰せになりました。
「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである」
 食事の終わりに同じように杯を取り、感謝をささげ、弟子に与えて仰せになりました。
「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。これをわたしの記念として行いなさい」

 私たち信徒は、この個所が、ミサの中核的な部分であり、司式なさっておられる司祭方も、この個所では、特に思いを尽くして唱えられ、かつ礼拝をなさられていると思われます。勿論、聖堂内の信徒の側も、深く聴き、すべてを見てとる凝視がある筈です。
 さて、今回の私の参加した黙想会は、一日プランでした。さるカトリック修道院の研修棟の一室です。普通の研修室に見えるのですが、座禅堂か、お茶室か、それでいて、小聖堂の中での風の動きのようなものが感じられる。敷物にせよ、座布団にせよ、腰を降ろして座り続けることに苦痛がないようにの、配慮のよく届いた場所でした。共に祈る方々は十名に足らない。
 ここで取り上げている黙想の導入の要旨は次のようでした。
「このセッションでのでは、次のように祈りを展開していただきます。――皆さんお一人お一人が、ミサの司式者となられ、祭壇に上られ、そのミサの初めから終わりまで、司式者は自分なのだ、との自覚に立って、自分のイメージ上でのミサを進めていただきたい。現実のここの場では、あなたは声も出さない、体も動かさないまま、イメージだけでミサを進めます。あなたのイメージの中ではあるけれど、あなたには、信徒さんの視線が集まっており、あなたの声は、最後部の方の耳にも、きちんと届いている筈です。
 今回の、このような体験は、どなたにとっても、初めてのことかと思います。30分ほどのこの瞑想のあとで、さまざま体験したそれぞれの方の内なる気付きなどについて、分かち合いましょう。さあ、皆さん、始めてみて下さい。」
 上のような導入によって、祈りに入って行きました。私には、全く予想外なことで、やはり大きな驚きがありました。信徒としての私の場合、ミサ中に祭壇に上るのは、聖書朗読者になる場合、あるいは侍者の仕事を引き受ける場合に限られていました。
 今、思えば、ミサに与かる私の姿勢というのは、ただ仰ぎ見るだけのものでした。「今日のごミサ、いいミサでしたね」の一言を聴くことも、私が口にすることもあります。帰りがけ「このミサにあずかったことで、この数日、また違った想いですごせる」ふっとそんな気分になる折もままある、そういったことの積み重ねでした。
 私にとって、私の生活に組み込まれた、週一回のごミサは、ただの習慣とされており、私の信仰の深みに達していくものにはなっていない、と最近強く思うようになっていました。そこに、今回の、この展開です。何か不思議な予感がよぎりました。
 祈りの中で、ミサでの展開されるさまざまな場面が、あちこち前後しながらイメージとして浮かんで来ているうちに、愕然とした場面に向き合うことになりました――それは、この稿の最初に掲げた式文です。確かにこれは、ただの式文なんぞと言えるものではない。主イエスご自身が、そのおからだとおん血を捧げるという、主ご自身の誓いであり、叫びであり、宣言です。
 司式の当事者である、この私はどのような姿勢で、どのような音声で、どのような想いを、聖堂内の会衆の方々に、伝えるのか。
 結局、その一時間の黙想では、私自身の納得のいく何らかの実感は湧いてきませんでした。しかし、得られたものがありました。
 最初に感じた、身震いするような予感です。不思議なことに、その予感には、何か実感があるのでした。それは、主イエスが振り向いて、私を見られた一瞬があったという事でした。私の中に入ってこられた、という小さな実感です。
 あの黙想会から、もう三ケ月が経っていますが、この主イエスとの出会いは、小さいながら、私の奥の奥に光った小石として居つづけています。

(神奈川 80代 男性)

 

 

 

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