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サダナ東洋の瞑想とキリスト者の祈り

私のサダナ記念日

【37】神の自由、わたしの自由

 今年(2013年)2月、私が学んでいる「リラ・プレカリア」で、サダナ1日黙想が行われました。リラ・プレカリアでは「東洋の瞑想とキリスト者の祈り」を使って少しずつ個人的に黙想をしていますが、この日はご指導の神父様のガイドに従い、ゆったりと時間をかけて祈りの中に沈んで行くことができました。呼吸、身体のある部分に覚える知覚、周囲の音などに注意力を集中することによって、頭の中を駆け巡る思いやおしゃべりを鎮めることができるのです。この日の想像力を用いて『聖書』の中に入る冥想では、わたしは両手に幼子イエスを感じ、人々に幼子イエスを運んでいくわたしの役割を体験したのでした。
 その後の自宅での黙想(リラ・プレカリアでは1週間に1章の黙想が宿題)が、やりやすくなりました。彫刻家が制作してくれたわたしの彫像(「美術館」の冥想)は滂沱の涙を流しながら天を仰ぎ、手放しで嘆願する姿でしたが、なんとその彫像は“聖人の後輪”をつけているのです。ちょっとクスッとしてしまいました。そこに現れたイエスは、「あなたが友人のためにしたことは、もう十分だからあとはわたしに任せなさい」とおっしゃいました。このときのわたしは、ある友人を助けるためにできるだけのことをしたつもりでしたが、友人の抱えている困難な状況はなかなか解決せずにいたのです。しかし、この黙想の後、わたしは私自身の思いを手放すことができたのです。
 さて、そんなサダナ体験に味をしめたわたしはその後、フォローアップ黙想に加えていただきました。この日の黙想の一つはレンブラントの絵「放蕩息子の帰郷」を題材にしたものでした。聖書でおなじみの箇所であり、またナウエンの同名の著作にも触れていたこともあり、スンナリと入ることができました。お父さんとの対話を進めて行く中で、“このお方は何と自由なのだろう”との思いに満たされました。くる日もくる日も涙のうちに待ちこがれていたであろう父は、何の条件もつけずにただただ受け入れるのです。どんなに心配していたかなどとも言わずに。そんな父に抱かれている弟の姿をみながら、兄のこころも自由を回復して行くのです。かたくなに握りしめていた手も、もう少しでほどけそうなところまできました。
 「座禅みたいなことを祈りに取り入れている」程度の認識しかなかったサダナでしたが、わたしたちに与えられたすべてを総動員して歩む「神への道」は、広く、深く、高くあるけれども同時に近い、やさしい、楽しい道なのだと感じました。“神と遊ぶ”とはこんなことなのかなと、ふと思ったのでした。

(北海道 60代 女性)

 

 

 

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