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サダナ東洋の瞑想とキリスト者の祈り

私のサダナ記念日

【34】サダナで与えられた恵み

 サダナとの出会いは主人と日々のデボーションで、ある時期使っていたデメロ神父様の書かれた本でした。
 知識や心だけの神様との交わりだけではなく、呼吸や体の部分の感じ取りを行う方法で神様と交わりをするというのはとても新鮮に感じていました。そして、また日々の忙しさの中から抜け出して、観想的な祈りを集中的に持ちたいと思っていた頃に、シスターマリエッタを通じて、サダナをデメロ神父様から直接ご指導を受けた植栗神父様が沖縄で研修を開くと聞き、すぐに申し込みました。

◆聖なる嫉妬

 嫉妬とは良いものではなく、神様から私たちを引き離してしまうものと考え てしまいます。しかし、私はサダナを通して燃え上がる嫉妬を感じました。神父様のガイダンスに沿って何節かの御言葉を読み、思い巡らせ、私もその中に入るという瞑想方法がありました。
 幾つかある中でヨハネ12章3節の観想がとても印象に残っています。その御言葉は、「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持ってきて、イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭った。家は香油の香りでいっぱいになった」です。この場面の前後の御言葉も含め、イエス様が家に入られる様子、食事が用意されている様子、そこにいた他の人々の様子などを思い巡らせました。マリアがイエス様を追って家の中に入る様子を私は第三者的に見ていました。部屋に入るとイエス様をお迎えする人々がいました。マリアはそれにも気をかけず、表向きには感じられませんが、一心不乱にただイエス様の足元にいようとする姿がありました。見かけはみすぼらしい格好でとても嫉妬される対象のような女性ではありません。しかし、マリアはイエス様の足に香油を塗り髪で拭った後、イエス様に見つめられていました。すると彼女の心の中に光が差し込み、その心が言い表せない喜びでいっぱいになったのが見えました。外からはその変化に誰も気がついてはいません。むしろ煙たがられていました。
 観想の中でじっくりゆっくりその御言葉を通して場面に浸ると、普通自分で読む聖書では見えてこないもの、感じられないものがはっきりしてきました。マリアがイエス様から直接頂いた喜び、愛を感じているのが見え、マリアは誰も奪えないもの、誰も人の経験などから自分のものにする事の出来ないものを持って知っているという事がわかり、私の心の中で大きな嫉妬心が起こりました。
 次に神父様が、その後あなたはどうなさいますかとの問いに、私は「イエス様、次は私に味わわせてください!」と言わんばかりにイエス様の後ろにピッタリとくっついていました。私もマリアのようにもっとイエス様と近くなりたい、焦点を合わせ、そこから我が身を忘れイエス様に酔い、近くに行きたいという憧れと羨ましい思いが自分の中に強くあった事に気がつき、その思いに正直に生きていきたいと思いました。
 そして5か月後、ある日のミサで私はあのマリアの喜びを、神様の愛を全身で感じました。私はミサの間、立っていられないほど神様の愛と喜びに圧倒されて、足と手は震え本当に言葉で表現できない喜びが心に溢れ出ました。礼拝を捧げる間、涙と震えが止まりませんでした。普段は共同祈願も自ら進んで声をあげませんがその時は本当にこの溢れる喜びを表現したい思いに駆られその思いをお祈りしました。

自分のお葬式

 もう一つ印象に残ったのは自分の葬式を思い巡らすという事でした。死んで いる自分の体や顔を見つめてみてください。どういう状態ですか? という問いが観想中にあり、葬式はどこで行われていますか? 誰が来ていますか? その人たちはどのような表情をしていますか? 説教をしている人がいる場合どのようなことを話していますか? などと具体的に見つめていく事が求められていました。
 葬式の中で神父様の説教の内容は「天が地よりも高いように、私の思いはあなた方の思いよりも高い」というイザヤ書からの御言葉でした。泣いている親族、友人たちはどうしてといった表情が多く、死んでいる私は泣き悲しんでいる人たちに、理不尽のようでも神様の思いはもっと高いということを知らせたいと思っているのに気がつきました。
 そして葬式に来てくれている一人一人を見てごめんね、一生懸命愛さなくてという申し訳ない思いも込み上げてきました。一人っ子で両親からたくさんの愛を受け、祖父母やいろんな人に愛され手をかけられて育ったのに、忙しい日々にかまけて時間をとってちゃんと愛さなかったという後悔がありました。疎遠になっている友人の友情をあたりまえとしてずっと甘えていた自分に気がつきました。生活の中では死が近くにあると思った事が今までなかったのですが、今回自分の葬式を落ち着いて観想し、いろいろ気づかされました。

 もっと人を神様がそうするように私も積極的に愛そう、そしてその思いを形にしたいと思いました。正直、現実では思いと実行が伴わない事が多いのですが少なくとも意識が芽生えて来た事は確かです。サダナで出会えた仲間、そして新たな気づきに感謝し、信仰生活を送っていきたいと思えた恵み多い素敵なきっかけでした。

(沖縄 30代 女性)

 

 

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