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サダナ東洋の瞑想とキリスト者の祈り

私のサダナ記念日

【28】サダナで得る祈りの深まりと仲間

 40歳を過ぎて授洗に与った私は、信仰を通して多くの新鮮な変化を得ることができました。なかでも祈りの大切さ、それも神や他者のために祈ることの大切さについて痛切に気付かされました。しかし、私は信仰生活の日も浅く、その祈りも荒削りで我流なものでした。労働後のロザリオでは神への感謝とは裏腹に、祈りながらもその日の出来事がよみがえり、腹が立ったり、得意な気分になったりと、雑念や自我に捕らわれ、祈りとは程遠いものでした。
 そのことが信仰上の悩みでしたので、日頃お世話になっているシスターに相談したところサダナが沖縄で行われるとのお話を伺い、多少の不安も感じましたが、「これは確かな道標を頂けるのでは」との直感?聖霊?が働き、少しの勇気を出して受講する運びとなりました。
 サダナⅠでは、体の感じ取りや呼吸の感じ取りを通して意識をニュートラルな状態に持っていくことがエクササイズの大きな目的であり柱でした。植栗神父のガイドに従って体の各パーツを感じ取っていくプロセスでは、神の神殿と言われている肉体の不思議を多く感じることができたとともに、違和感や苦痛を感じることなく自然な流れの中で意識をニュートラルな状態に持っていくことが経験できました。
 サダナⅠでの大きな収穫は、様々な感じ取りの方法を体験しながら自分に合う方法を見つけ出し、意識のニュートラル化を自分でもトレーニングできるようになったことでした。
 そしてサダナⅡでは開始時から強烈なメッセージを頂きました。「体は大切な友達であり、体が祈りの世界を広げてくれる。」というものでした。私たちは日常生活であらゆる事物を意識的に論理的に捉える癖がついています。また、そうせねばならないという強迫観念に苛まれています。しかし植栗神父は「体には知恵があるから、体に聞きましょう」、つまり、「Don't think. Feel!」を真正面からおっしゃられ、私にとってこれはもう目から鱗が落ちる思いでした。
 その後、サダナⅡではこの方法を土台にイエス様と向き合う機会が増えていきますが、多くのエクササイズを通して今まで自分が気付かなかった神への多様な感情や思いと向き合うことができました。
 サダナを終えた今、強く感じることがいくつかあります。先に挙げた気付きや祈りの深みも、ニュートラルな意識を通した健全な自己イメージが形成されて初めて得られること。それらの事を円滑に行うには、適切なガイドとあらゆる思いをわかち合える仲間が必要であること。これらの条件を満たしている場がサダナであったことをはっきりと感じます。また、サダナの特色と言えるかもしれませんが、イエスを介したわかち合いを通してすばらしい信仰仲間との出会いにも恵まれ、このことは私自身の今後の信仰生活、延いては人生の大きな助けとなるでしょう。神に感謝。

(沖縄 40代 男性)

 

 

 

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