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サダナ東洋の瞑想とキリスト者の祈り

私のサダナ記念日

【18】私にとって、サダナ体験は…

 サダナとの出会いは、10年以上前になります。毎日の祈りが「体型に合わない服」のようにギクシャクしはじめた頃だったと記憶しています。私の場合、サダナⅠの体験で魅せられてしまい、それから毎年何かの形で体験を重ねていますが、サダナの祈りは奥が深くて、未だに自分のものになっていないのを感じています。でも確かに、日々の祈りが少しずつ変わってきましたし、今も極めたいと追い求めているところです。
 祈りの初め10分くらいの潜心のとき(感覚を使って、自分がいる「今とここ」にしっかり自分自身を戻すエクササイズ)を大切にするようになったこと、そのおかげで私自身が祈りを切り盛りしなくなり、神ご自身が祈りの間 主導権をとってくださるままに委ねることが当たり前と思えるようになったこと、そして、長い間大きな口を開けたまま放置していた過去の傷にも直面できたり、無意識の内にしまい込んでいた幼い頃からの出来事や出会いの中に宝や深い意味を発見して、自分の歴史が、神の救いの歴史の大きな流れの中に組み込まれていることを実感し驚いたりするのです。
 そんなとき、心のおもむくままに、一昨年、昨年と2年続けて、ダイアリーサダナに与らせて頂きました。歳ばかり重ねて登り詰めた人生を、導かれるままに振り返りましたが、これもまだまだ下山の途中という感じです。
 ダイアリーサダナを通して頂いた気づきは一言では表現できませんが――個人史は、『私しか読めない救いの歴史』なんだということ、神様は失敗や限界や罪からさえも善いものを生み出し、ご自分の一人ひとりへの『無償の愛』を身近に共生した生身の人間において受肉し、痛みを伴う愛や友情を通して実現されるという神秘――この観想には私たちの日常における「識別の知恵」が包含されていると感じます。
 今は、私の人生の一つひとつが繋がり、そしてすべての人の人生とも繋がったと感じて「サダナを続けていてよかった」と、素直に思えます。
(広島 70代 女性)

 

 

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