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サダナ東洋の瞑想とキリスト者の祈り

体(呼吸)と祈り

【25】習熟する(2)―体の構えと呼吸の鍛錬の奥―

 まだ、キリスト教的信仰心で礼拝・祈祷することの手前に留まりましょう。体の構え(感じ取り)と呼吸を軸にして、さらに奥へと進みましょう。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
 「吐き切る」ことを重んじながら、滑らかな深い呼吸が続けられると、体にとても尊い感じが現われ出ます。
 胸の奥や胃の底あたりまで、快い爽やかさが届きます。また、鼻腔の奥も似ている爽やかさを得ます。この鼻腔あたりの爽やかさは、頭蓋の内側で額にまで達し、なんとなしに、自分の霊が天への通気口を恵まれたように思われてきます。
 「鼻腔から額へさらに天へ」という通り道が上に向かう通り道だとすれば、下方に向かう尊さもまた同時に得られます。すでに、心や意識が体および呼吸と一体化してきていますから、さらにこれを丁寧に続けると、胸から両腕へ、さらに胴から両脚へと、「調和」「軽快さ」「霊の巡行のような尊さ」が行き渡ります。
 意識の覚醒も達成されてきます。
 その覚醒は、「今」「現在」というところのみを、感じ取る意識となります。自分と密接な関わりの人々や物事にさえも、距離が得られ、「ほんとうの自己」が現われ出ます。自分は、今・ここで、「ありのままの自己」「おのずからの自己」を再興できている――と、そう感じます。
 ここには、しん底「安らぐ自分」・「自らを強要しない自分」が居ます。
 実人生は、険しいところも多いです。そういう険しさに立ち向かうことも必要なのですから、「安らぐ自分」・「自らを強要しない自分」もまた、覚悟が必要です。その覚悟は、「緊張」とは異質です。意識のほんとうの覚醒から、覚悟を持つ場合、そこに浮かび出るのは「毅然さ」です。
 腰のところの引き締め(腰骨を立て続ける)の、がんばりは、「安らぎ」の中の「毅然さ」を産出できます。「安らぎ」ながら、時に応じて「毅然」と、課題に対応する心です。
 体の確固とした構えと感じ取りおよび傑出した呼吸において、人は、高度に整ってまとまりを得た“体と共に生きる自己”となります。そして、「安らぎ」と「毅然」とを兼ね具えて人生に取り組む人となります。

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