※この祈りの場合、福音書の語る「事実」からは、かなり飛躍した想像を展開します。
しかし、イエスの言動の「真実性」は、大きな深みのうちに保たれ、そのイエスと冥想者は深い交わりを持ちます。
次の3つの福音の箇所を読みます。
イエスが私に向かってこうおっしゃる様子を想像する。
「今晩、私は、あなたと食卓をともにします。
そのために場所を用意しなさい。」
そこで、私は、ある場所を選ぶ・・・・・
このいつもと違う晩餐に、私は誰を招くだろうか・・・・・
晩餐のために、私と友人たちとは、どんな準備をするのか・・・・・
その準備の後、方法は大きく変わって、活発に想像を繰り広げることとなります。
ついに、その時がやってくる。
私は晩餐の部屋、そこに並べられた食べ物を見る・・・・・
パンやぶどう酒、招待した客たちを眺める・・・・・
イエスを私の友人たちに紹介する。
また逆に、友人たちを、イエスに紹介する。
そのとき、一人ひとりに、それぞれ形容詞をつけて紹介する。
たとえば、「こちらは、誠くん、『誠実な』人」とか、
「こちらは、恵子さん、『愛情あふれる』人です」、
または、「こちらは、『心やさしい』英之くん」という具合に・・・・・
次に、イエスは、私たち一人ひとりに、なんらかの形で愛を示してくださる・・・・・
このようにして、食事が始まる。
食事が始まって間もなくすると、イエスはパンを裂き始める・・・・・
そして、私たちに、それぞれパン切れを手渡す。
そのとき、イエスは一人ひとりに何かひとことおっしゃる。
私には、いったいどんな言葉をくださるだろうか?
パンをいただいた後も、食事はまだ続く。
イエスは、よくお話しになる。私たちの質問にお答えになる。
また、自ら話されることもある。
イエスは愛についてお語りになる。
まるで、私ひとりに向かって話しているかのようだ。
イエスは、使徒職についてお話しになる・・・・・
それに伴う迫害や困難についても語られる・・・・・
こうしたことは、私たちの日常の生活のなかで、
具体的にどのようなことを意味しているのか、イエスに尋ねてみる・・・・・
続いてイエスは、平和について話される・・・・・ 私は今、いかばかりの平安を心に持っているか、自問してみる・・・・・ 平安に対して、自らどのような妨げを築いてしまっているか・・・・・
イエスは、喜びについて語られる。
その喜びは、イエスが何らかの形で臨在しておられるという実感から生まれ出てくるもの。
その臨在は、誰も私たちから奪い取ることのできないもの・・・・・
そこで、私たちはイエスに尋ねてみよう。
この喜びについて・・・・・この臨在について・・・・・
また、私の人生で、この「臨在」を感じた瞬間を思い出してみよう。
確かに、この晩餐はなんらかの形で、イエスと私たち双方の生き方につながっている。
すなわち、その受難、死、復活と結び付いている。
そこで、これについてもイエスと話し合ってみよう・・・・・
今や晩餐が終わろうとしている。
イエスは、ぶどう酒の杯をとり、尊い言葉を唱え、
私たち一人ひとりに、そこから飲むようにと杯を手渡される。
そのたびに、イエスは再び何かの言葉をおっしゃる。
私に対しては、何とおっしゃるだろうか?・・・・・
ぶどう酒が飲みほされ、部屋には沈黙がやってくる。
すると、イエスは、私のため、友人らのために、大きな声で祈られる・・・・・
私たちが互いに結ばれ、一致するようにと祈られる・・・・・
私たちがどこにいようとも、この一致が深められますようにと祈られる・・・・・
ついに別れの時が来た。
私たちは席を立ち、イエスに続いて賛美の歌を歌う・・・・・
私は賛美を歌いながらも、心のなかで、ある感動と余韻とを、ゆっくり味わう。
私がイエスと友人らのために準備したこの晩餐、
この晩餐を通してかもしだされた感動と、その余韻とを味わう・・・・・